劫火



 ――ツォ
 彼はふと、耳に馴染んだ優しい声を聞いた気がした。
 彼女がいつもそう呼びかけるその言葉が自分の名前なのだと、何となくだけれど彼はわかっていた。
 他の言葉の意味はわからなくても、その意味だけはわかっていた。彼をそう呼ぶとき、彼女の声はいつも優しさに溢れていた。
 くるりとツォは振り返る。やはりいつものように彼女は来ていない。かくんと肩を落とすと、彼はふるりと首を振る。そうだ、彼女はここのところずっと身体の具合がよくないのだ。いつも床に伏せっているし、弱々しく差し出される手も真っ白で冷たくて力がない。だから彼女が追い掛けてくるはずがない。
 戻らなきゃ、と不意にツォは思った。彼女の傍にいなきゃ、と思った。彼女の代わりに、あの小さくていい匂いのする可愛いものを抱き上げてあげなければ、と思った。あれはふわふわしててすぐに壊れてしまいそうなのに、放っておくと物凄く大きな声を出す。せっかく眠っている彼女はその声に起こされて、いつもふらふらしながら世話をするのだ。そんなときはあれが少し憎たらしくなるけど、でも彼が抱き上げてあげれば物凄く嬉しそうにきゃっきゃと笑う。彼女にちょっと似たその笑顔は、たまらなく可愛い。
 前はずっと寝てばかりだったのに、ここのところあれはよちよち歩くようになった。一人で勝手に動き回るから、彼女はますます目が離せなくなって、ますます休めなくなっている。うっかりしていた、と彼は思った。離れちゃいけなかったのに。傍にいなきゃいけなかったのに。
 長く伸ばした柔らかい髪を背中でふわりと弾ませて、彼は踵を返した。本当は水の中を行く方が早いけど、それをすると帰ったときに彼女が困った顔をするから。だから白い足で地面を蹴る。
 もう一度、あの声が聞こえた気がした。ついさっき、彼を見送った彼女の声。言葉の意味はわからないけど、大好きなあの声。
 ――ツォ
 ――絶対に、戻ってきては駄目


 小屋の外で物音がした。サチャは言うことの聞かない身体を引き摺るようにして、粗末な褥の上に起き上がる。隣ですやすやと眠る子を起こさないように抱き上げると、ぎゅっと抱き締めた。
 ――きっと守り神様が天に帰る儀式が終わったのだ。だから村の人は、この子を新しい守り神に迎えるつもりなのだ。
 元々サチャは「シロ」の娘だった。「クロ」の人々に仕える為に天上の神様が遣わした、人の形をした人でないもの。だから彼女には名前もなかった。親も兄弟もいたけれど、彼等にも名前はなく、ただ主人の為だけに働いて生きていた。
 サチャの姉が「生贄」に選ばれたのは、確かサチャが生まれて間もない頃だった。彼女には「アシマ・フォモ」と言う名前が与えられて、村の外れの湖にすむ神様の御許へと送られた。まるで魚のようにしなやかで、虎のように強い神様は、アシマをとても大切にした。そしてアシマは神様の子を産むという御役目を頂いた。
 神様の子供には二種類がいる。一つはヒトの子である女の子、もう一つは神様である男の子。アシマが産んだのは、神様だった。
 けれど元々丈夫でなかったアシマの身体は、その御役目に耐え切れなかった。アシマの仕えた神様は、悲しみのあまりそのまま天に帰ってしまったらしい。そして生まれたばかりの小さな神様だけが残された。
 小さな彼を育てる為に新しい生贄として捧げられたのが、彼女だった。まだ六歳だった彼女は「サチャ・フォモ」と言う名前を賜って、その身を新しい小さな神様に捧げることになった。神様の為にお乳の出る女の人を探して分けてもらい、ご奉納される布で服を縫って、湖でその身を綺麗に清め、悪戯をしないようにきちんと言い聞かせ――そんな風にして今に至るまでずっと、お世話を続けてきた。
 神様も彼女に懐いてくれた。いつも傍にぴったりとくっついて離れなかった。他の神様や人々みたいに言葉を話せるようにはならなかったけれど、サチャが嬉しいときには誰よりも嬉しそうに笑ってくれた。サチャが悲しいと心配そうに頬を舐めてくれた。少しでも姿が見えなくなると不安そうな声を上げて、彼女を見つけ出すと大喜びで駆け寄って来てくれた。
 ――神様が地上にいることが出来るのは、一番長くて二十年。アシマのお仕えした神様みたいにもっと早く天に帰ってしまう神様もいるし、二十年目の春に村人の手によって天に帰される神様もいる。そうなると生贄は御役目を解かれ、死んで土に帰るまで再び俗世で働くことになる。「シロ」は元々道具だから、「クロ」みたいに死んだ後も天に昇ることは出来ない。それを思うとサチャは寂しかったけれど、寂しそうな顔をすると神様が悲しそうな顔をするから、いつも笑うようにしていた。
 そんな彼女は遂に去年、アシマのように神様の子を産むという御役目を頂いた。光栄なことに、その子もまた神様だった。
 そして驚いたことに、その子は薄い金色の髪に湖のような青い目をしていた。時々そんな色の違う神様が地上に降りてくることがあって、それはとても尊い神様なのだと村のアヘイ爺さんが言っていた。だからサチャはとても誇らしかった。
 サチャの神様は今年で地上に降りて十四年目。まだまだ子供みたいなところがあるけれど、それでも子を賜る為の儀式はきちんとわかっていたし、やって来た新しい神様をとても可愛がってくれる。普通神様は子供の神様を可愛がることはほとんどないらしいから、凄く珍しいことなのだろう。
 けれどそれはサチャにとってはとても幸運なことだった。神様を地上に生み出して以来、彼女はあまり身体の具合がよくない。お産の後なかなか血が止まらなくて、一年も経ったのにまだお腹が痛くなることがある。一度は落ち着いたものの、ここのところまたひどくなっているようで、目の前がくらくらして倒れてしまったきり起き上がれなくなることも増えた。そんなとき、ぐずる小さな神様の面倒をサチャの神様が見てくれると、それはひどくありがたかった――村の人には、「神様の面倒もろくに見ない生贄」と陰口を叩かれることもあるけれど。
 ――そんなことよりも、ずっとサチャが気懸りだったのは、村の守り神のことだった。
 村には昔からずっと、一人の守り神がいた。神様の中でも一際尊い守り神は、村の外れの「神の家」にお住まいになって、村を守ってくれている。この守り神は、村の娘を託宣で選び出して妻に迎えることになっていた。そしてその妻は新しい守り神を地上に産み出す御役目を頂くことになっていた。
 けれど守り神も、地上にいることが出来るのは二十年と定められていて、時にはその間に新しい守り神を地上にお迎えできないことがある。そんなときには、サチャやアシマのお仕えするような湖の神様を守り神にお迎えするのだ。
 今の守り神は、いつも天に帰りたがっていたらしい。二十年にはもう少し時間があるはずなのに、妻も迎えず「神の家」の中でずっと天を恋しがっておられるとの話だった。もしもその守り神が天に帰ってしまったら――きっとサチャの神様ではなく、ようやく伝い歩きを始めたばかりの小さな神様が守り神に迎えられるだろう。とても珍しい色の、とてもとても尊い神様なのだから。
 サチャは眠る小さな神様を抱き締めたまま、きつく目を瞑った。それはあまりにも酷い。幾ら神様とは言え、こんなにも小さな子が一人ぼっちで「神の家」に入れられてしまうなんて、きっと心細いだろう。せめてもう少し大きくなるまで待ってもらえないだろうか。さもなければサチャやサチャの神様も一緒に連れて行ってもらえないものだろうか。この子は人見知りもするし、食べ物や遊ぶときにも気を付けなければいけないことがたくさんあるのだ。そんなことを止め処もなく考えていた。
 ――その瞬間だった。増え続ける足音の中、突然小屋の扉を乱暴に叩く音が響いた。びくりと身を縮ませるサチャの前で、扉がこじ開けられるように開かれる。そして村の長やたくさんの人達がわっと乗り込んで来た。その数に思わずサチャは怯えて首を振る。
 大柄な身体に、儀式用の華々しい衣裳を着込んだ村の長は、粗末な小屋の中を見渡すと言った。「……ツォ・トゥルーウーはどこだ。」
 「……」思わずサチャは絶句した。それから背筋を伸ばして叫ぶ。「長様とは言え失礼な! ツォの名前を呼んでよいのはわたしだけのはずです! 」
 うるさそうに目を向けると、長は背後の者に顎をしゃくってみせる。「それではまずサチャ・フォモを連れて行くことにしよう。」何人かの大柄な男が、すっとサチャの目の前に立った。思わず褥の上を後退る彼女の腕から強引に赤子を引っ手繰ると、彼等はサチャを布袋か何かのように抱え上げた。
 「……やっ! 」思わず声を上げるサチャの腹部に拳を入れて黙らせると、彼等はぞろぞろと小屋を引き上げて行った。
 その瞬間、火が着いたように子供の神様は泣き出した。


 生贄に捧げられた者は、人として生きていたときのことを捨てなければならない。その為サチャは、家族ともずっと会っていない。母はサチャが生まれてすぐに死んでいたけれど、風の便りに彼女が生贄になってまもなく父も死んだのだと聞いた。
 だからサチャにとって、ツォとこの子は家族のようなものだった。無論そんなおこがましいことは言えないけれど、でも大切に思う気持ちは誰にも負けなかった。恋愛の情で神様を汚すことは最大の禁忌であったけれど、それでもツォを愛しいと思う気持ちには変わりなかった。またツォもサチャを大切にしてくれていた。いつも傍にいて、笑ってくれた。辛いときや苦しいときは、何とかして宥めようとおろおろとしてくれた。
 けれどツォは昔から不意に、遠くを見ることがあった。どこかこの村を遠く離れたところへ無性に行きたそうにすることがある。それは許されないことではあるけれど、サチャはそれを留めるのが忍びなかった。だからいつしか、ツォが一人でぶらりと遠くへ行ってしまうのを止めなくなった。戻って来なければ彼女が咎められるのはわかっていたけれど、それでも構わないと思うようになった。
 それでもツォはいつも必ず戻ってきて、寂しかったと言わんばかりにサチャの胸にぐいぐい顔を押し付けてくるのだ。
 一緒に行こうか、と思いもした。一緒にツォとこの村を離れて、誰もいないところでこっそり暮らそうかと思うこともあった。けれどきっと追手が来る。そのときは二人諸共儀式もされずに殺されて、ツォも天に戻れなくなる。サチャの家族にも罰が架せられる。そう思うと行けなかった。そうこうするうちに小さな神様が生まれて、サチャは身体を壊してしまった。彼女は自由に動けなくなり、ますますどこにも行くことは出来なくなった。
 「――どこにやった! 」罵声のたびに容赦のない一撃が飛ぶ。弱った身体にそれはひどく堪えたが、サチャは口を割らなかった。「神を逃がすなど、最大の罪だとわかっているのか! 早く言わんと刑に処するぞ! 」
 彼女を遠巻きに眺める人々の姿がぼんやりと見えたが、どんな表情をしているのかはサチャにはわからなかった。ただ虚ろな目で、彼女は自分の産んだ神様の姿を探す。「……あの、こは……。」泣き声が少しずつ遠ざかっているように思える。ツォによく似た顔をした、けれど稀少な髪と目を持つ小さな小さな神様は、多分泣き疲れて眠くなっているのだ。
 その瞬間に頬に激しい衝撃を感じた。そのまま引き倒されて、彼女はぼんやりと宙を見詰める。殴られた傷に長の声がじんじんと響いた。「言え! 早く言うんだ! 」
 ――あの子が守り神になってしまったら、きっと今のように会えなくなってしまってツォはとても悲しむだろう。そして村の人達は子供を奪われた怒りで、彼が襲ってくるに違いないと思い込んでいる。彼等はツォをとても怖いものだと思っているのだ。それは誤解で、ツォはとても優しくて大人しい。けれどそれを誰も信じてくれない。
 もしも守り神が天に帰ってしまったら、きっと子供を迎えに来た人々は、その手でツォを天に無理矢理引き戻してしまう。地上が大好きで、サチャの傍にいるのが何よりも大好きで、まだまだ天に戻ることを考えもしない彼を無理矢理送り戻してしまう。サチャはそう考えていた。だから守り神が天に帰ったと聞いて、すぐにツォを遠くに送り出したのだった。
 ――ツォ、遠くにお行きなさい。絶対に戻ってきては駄目。誰も追い掛けて来ることの出来ないところまで行ってしまいなさい。
 ツォはいつものように無邪気に笑って、ふわふわとどこかへ出かけて行った。どうかそのまま戻って来ませんように、異変に気付いてどこか遠くで暮らしてくれますように、とサチャは祈った。天へと引き戻されると、彼はもう二度と戻ってくることはできないのだから。
 朦朧とするサチャの髪の毛を引っ掴んで顔を上げさせた長は、苦々しげに呟く。「……わかってるんだ、お前が呼べばあの神はすぐに戻って来るとな。それなのになぜ呼ばない。」だが、サチャは顔を歪めたきり何も言わなかった。ただ荒い息遣いでぼんやりと宙を眺めるだけだった。
 呼ばない。もうツォの名前は呼ばない。だから戻って来ないで。ただそれだけを彼女は念じていた。
 不意に傍に控えていた御巫の一人が長に言う。「……神様は鼻が利きます。助けを呼ばずとも、生贄の血の臭いだけで戻って来るのではありませんか。」長は少し驚いたような顔をしたが、すぐに口元を笑みに綻ばせた。
 「それは、よい考えだ。」
 目の前が霞んでいて、サチャにはもうその笑顔も見えなかったのだけれど。


 小屋の近くまで戻って来たツォは、ふと鼻をひくひくとさせる。村の広場の方から、サチャの匂いの風が漂って来ていたのだ。村の真ん中まで入るといつも怒られるのに、と少し怪訝に思ったが、ツォはそちらに足を向けた。
 一歩ずつ歩き出すたびに、サチャの匂いは強くなった。こんなに強い匂いは久し振りだ、とツォは思った。確かあの小さい可愛いのが生まれたときも、よく似た匂いがしていた。あの後サチャはうんと弱ってしまっていたけど、それでも嬉しそうに笑っていた。
 だから知らずの内にツォの気分も弾んでいた。またあんな小さくて可愛いものがやってきたのだろうか、と思うと嬉しくて小走りになった。
 匂いの中心を取り囲むようにして、たくさんの人が並んでいるのが見えた。ツォに気付くと、皆びくりとしたように道を開けた。誰もが畏まった顔をしているので、彼は思わず小首を傾げる。それからくるくると動く大きな黒い目を彷徨わせると、ようやく目当ての姿を見付け出した。
 広場の真ん中にある大きな木のところに、サチャは立っていた。少しゆらゆら揺れているけれど、ここのところ起き上がることも出来なかった彼女が立っているのを見て、思わずツォは駆け寄った。勝手にふらふら出かけてしまってごめんなさい、と笑顔を見せる。それから再び首を傾げた。
 サチャは何も言わなかった。ただぼんやりと薄目を開けて、虚ろな眼差しをツォに向けているだけだった。
 村一番の美人と謳われたサチャは、その顔を紫色に腫らして、少し辛そうに眉間を寄せたまま表情一つ動かさない。口元から一筋だけ、黒っぽく変色した血が滴り落ちていた。
 ツォはちょっとだけ背伸びをすると、彼女の頬に不器用に掌を当てる。一度彼女は拒むようにゆらりと揺らいだ。けれど何も言わない。
 サチャが彼を見ても何も言わないなんて、滅多にないことだった。もしかして物凄く怒っているのだろうか、勝手に遊びに出かけてしまって怒っているのだろうか、とツォは不安に駆られる。
 そしてツォは、彼女があの小さい可愛いものを抱いていないのに気付いた。どうして、といぶかしむのと同時に、どうしようと彼はうろたえる。あれは一人でよちよち歩けるようになったけど、まだまだ危なっかしいのに。すぐに転んでしまうのに。どこかに落ちてしまうかもしれないのに。サチャはそのことを忘れてしまったのだろうか、とツォは慌てて彼女の頬を軽く叩く。彼女の耳元で声を出して、注意を喚起する。
 それでもサチャは何も言わなかった。
 どうしよう、とツォは慌てた。サチャがこんなに何も言ってくれないなんてはじめてだった。彼女が返事をしてくれないことがこんなにも不安だなんて知らなかった。おろおろと彼はサチャの頬を掌で包み、その黒髪を掻き混ぜる。
 その瞬間、聞いたこともない軽い音が背中の方で響いた。振り向こうとしたツォは、そのまま身をこわばらせる。突然背中から焼け付くような痛みが走ったのだ。
 ふと自分の胸元から、何か黒い鋭いものが突き出しているのが見えた。その先端からつっと伝うのは、真っ赤な鮮血。それは既に赤黒く染められていた地面に落ちてしみ込んだ。
 前にサチャが教えてくれた。これは人が狩りのときに使う、危ないものなのだと。だから触らないように、と彼女は玩具にしていたツォの手からそれをそっと抜き取ってくれた。それでもこっそり遊ぼうとして怪我をしてしまって以来、ツォはそれには触らないようにしていた。そのはずなのに。
 どうしてこれが自分の胸から飛び出しているのだろう。
 混乱よりも先に、凄まじい痛みでツォは立っていられなくなった。胸元の傷から滲む痛みを押さえてその場に蹲り、小さな声を上げる。痛いよ、とサチャに助けを求めた。助けて、サチャ助けて。いつもみたいに手当てをして、もう大丈夫と笑って。サチャの笑顔を見るだけで、もう怪我なんて忘れられるのに。
 髪の毛を乱した地面に顔を押し当てると、サチャの匂いはうんと強くなった。あの小さい可愛いものが生まれたときの匂い。少し辛そうに、だけどとても幸せそうに笑うサチャの匂い。――それなのにサチャは、何も言ってくれない。助けを乞うように、彼は腕を宙に掻いた。その掌が、こつんと何か細いものに当たる。
 おずおずと見上げたそれは、サチャの二本の白い足だった。爪先まで真っ直ぐにぴんと伸ばして、地面からふわふわと浮いていた。長い波打つ髪を地面に擦り付けて、ツォはやっとの思いで顔をもたげる。それでもサチャはぼんやりとした視線を漂わせるだけで、ツォに目すらくれようとしない。急に寂しくなって、ツォは鼻を鳴らした。胸の奥でじゅくじゅくと変な音がして傷がひどく痛み、息すらろくに出来なかったけれど、それでもツォは懸命にサチャに呼びかけた。助けて、助けて、痛いよ、と。誰にも通じなくても、サチャだけはいつもわかってくれる彼の言葉で。
 回りが何だかひどく騒がしかった。そんな中で、サチャだけがじっと黙り込んでいた。もしかして、とツォは涙を伝わせながら考える。もしかしてサチャは、ツォのことが嫌いになってしまったのではないだろうか。考えるだけでも怖くて堪らず、ツォは何度も声を震わせた。サチャの匂いの地面に顔を突っ伏して、何度も何度も助けを求めた。
 その瞬間だった。ツォのすぐ目の前に何か大きなものが落ちるような、どさりという衝撃が感じられた。
 髪を乱して目だけを上げる。そこにあるのは、地面に投げ出された二本の脚。立ち上がることも出来ず、よろよろと這い蹲ってツォはにじり寄った。
 血塗れの地面の上に横たわるサチャは、肌蹴た裳裾を恥らいもしない。その服は血の匂いに真っ赤に染まっている。
 サチャの細い腰に締めた帯は、今にもちぎれそうなほどずたずたになっていた。一際鮮烈な匂いが鼻を突く。帯だけでなく、サチャのお腹もずたずたになっているのが見えた。何度も何度も鋭いもので刺し貫いたようで、粗末な服の布は真っ赤に染まって血肉にまみれていた。
 サチャの手は、と霞む目でツォはまさぐった。けれど彼女の細い両腕は背中に回されて、少し引っ張っても動きもしない。冷たい柔らかい優しい手がひどく恋しかったのに、その手は後ろ手に縛られていて触れることも適わなかった。
 強烈な血の匂いの中で、まだ僅かに甘いお乳の匂いを残した彼女の胸は、お腹とは違って一太刀の下に深く切り裂かれていた。その服の胸倉をぎゅっと握ると、服の切り口が大きく肌蹴る。深い傷もそれにつれて大きな口を開ける。慌ててツォはその胸元を掻き合わせた。――いけない、サチャが壊れてしまうところだった。
 不意に何かが焦げる臭いがした。ツォは火が大嫌いだったけど、それでも構わずサチャの傍ににじり寄る。彼女の育てた伸びやかな手脚は、固く踏み締められた土を引っ掻いてぼろぼろになっていく。それでも構わず大切な人の傍ににじり寄る。
 ぐったりと横たわるサチャは、やはり虚ろな眼差しを空中に向けているだけだった。ばさばさに乱れた髪の毛を掻き毟るようにして、サチャの頭をツォは抱いた。きっと凄く辛かったのに我慢していたのだろう。だからサチャはまた倒れてしまったのだ。ごめんなさい、とツォは自分の頬を押し当てる。ごめんなさい、あの小さいのの世話もしないで遊びに行っちゃってごめんなさい。
 ぱちぱちと何かはぜる臭いがした。目の前が白く濁るのは、煙の為かそれとも目が霞んでいるのか。
 傷だらけで紫色に腫れ上がったサチャの頬を、ツォはそっと舐める。ツォは他に傷の手当ての仕方を知らない。サチャみたいに薬草を選べないし、包帯を巻くことも出来ない。だからツォは傷を不器用に指先で辿りながら、舌を這わせる。ごめんなさい、ツォも痛いけど、サチャはきっともっと痛いのだ。口も利けないくらいに痛くて堪らないのだ。そんなことも知らずにごめんなさい。
 ツォは、サチャの少し開いたままの青い唇からどす黒い血が伝っているのに気付いた。自分の背中の傷の痛みとサチャの身体中の傷の痛みに涙をぽろぽろ流しながら、ツォは彼女の唇に自分の唇を押し当てた。淀んだ血の匂いがする唇に、糯のように凝った血の溜まった口腔に、あまりの痛みに食い縛りすぎたのかところどころ小さく欠けた歯列に、彼は猫のような薄桃色の舌を這わせた。その小さな唇からも、次第に鮮血が溢れ出す。金臭い嫌な味が口中に広がったけれど、それでも構わずツォはサチャの血を舐めて傷口を清めようとした。ごめんなさい、こんなことしか出来なくてごめんなさい。
 濡れた頬に、熱い欠片が当たった気がした。オレンジ色の、すぐ消えてしまうのに執拗に追いかけてくるものは、きっと火花。
 ふと見ると、サチャの胸元の傷が再び大きく開いてしまっていた。慌ててツォは細い身体を抱き締めて、あまりにも大きすぎる傷口を塞ぐ。けれどもうそれが限界だった。もう少しも動くことが出来なかった。目を開くことも辛かった。息をすることすらままならなかった。
 ――ごめんなさい、ツォも痛くてもう限界。これ以上サチャに何もできない。ごめんなさいごめんなさい、あの小さい可愛い大切なものをサチャの代わりに抱き上げてすらあげられない。
 もうすっかり冷たくなったサチャの胸に顔を押し当てて、ツォは小さく咽喉を鳴らした。ごめんなさい、サチャはこんなに身体が辛かったのに、それも知らずに遊びに出掛けてしまってごめんなさい。だからもう怒らないで。
 炎は二人の服を少しずつ焦がし始めていた。髪の毛が焼ける嫌な臭いが漂い始めていた。やがて炎は、二人の身体にも赤い舌を伸ばし始める。
 ごめんなさいごめんなさいごめんなさい、ツォは悪い子でした。もうサチャを置いて勝手に遊びに行ったりしない。ずっと傍にいるから。ずっとずっと傍にいるから。
 だからお願い、声を聴かせて。
 お願い、一言でいいから。
 ツォ、って、呼ぶだけでいいから。
 ――ツォの、言葉にならない声は断続的に響いていた。けれどそれもやがて、燃え盛る炎の音に掻き消えていく。
 不意に思い出したように、赤子の神様は泣き喚き始めた。誰があやしても神様は泣き止まなかった。
 燃える炎の音と、御巫の祈りの声と、赤子の声と、それだけがやがて広場を支配した。他の者は、誰も口を利かなかった。この厳かな儀式をじっと押し黙って見守り続けているだけだった。一人の神を天に帰し、一人の生贄を土に帰す激しい炎を見守り続けるだけだった。


 ――そしてこの村は、それから十五年後に、滅びることになる。





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→アトガキ


 




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