番外編競作 禁じられた言葉 参加作品 / 注意事項なし

真夏の夜の夢 番外編

葩夭

written by かとりせんこ。
 葩夭(はよう)  
            ※ 六葩は、漢語で「雪」の意味



 この家の門戸を潜ったとき彼女は、黒い布を掛けた肩までの淡い金髪をぐっしょりと濡らし、見るも無惨な姿だった。穏やかにおっとりと微笑む表情しか知らなかった彼は、一瞬彼女が誰だか識別出来なかった。
 綺麗な董色の瞳までずぶ濡れに濡らした彼女は、しばらくの間苦しそうにむせていた。女の弱足で、厳しく険しい国境線を越えてここまで駆けて来たのだ。彼は、安易に尋常ならざることを想像することが出来た。
 「どうなさいました」彼は、暖かい部屋の奥から持って来たタオルを差し出しながら尋ねた。彼女は何か言おうとしたが、切れた息で声にならなかった。
 「落ち付いて。何があったのですか」愚問だと思いつつ、彼は重ねて尋ねた。掠れた小さな声で彼女は言葉を発したが、屋根や道路に激しく叩き付ける雨の音に掻き消されて、聞こえなかった。
 多分、彼も動揺していたのだと思う。何も言えない状態の彼女に向かって、再三に渡って尋ね掛けた。「何が……」
 「……先生。」ようやく、彼女の声が彼の言葉を遮った。紅潮した彼女の頬に、涙の雫が零れ落ちた。彼女は、まだ全くと言っていいほど膨らみのわからない腹部に手をやりながら、吐き出すように言った。その仕草で初めて、彼は彼女がここにやってきた意味を理解した。
 「どうしてあの人は、お父さんになっちゃいけないの?」
 激しく冷たい雨の音が、夜の空に響いていた。


  *              *               *


 竜血樹が彼女を初めて見掛けたのは、冬の初めの、短い日が落ちようとする頃合いだった。表を堂々と歩けない彼は、帽子を深く被って老爺に手を引かれながら、彼らの住む古い借家のある裏通りを足早に歩いていた。
 学校に通っていない竜血樹は、いつもは家でこの老爺に個人授業を受けているが、今日は彼の仕事があったので、同行したその帰路だった。
 「先生」
 竜血樹はふと、隣を歩く老爺の手を引いた。老爺――竜血樹の師、甫民は、白くふっさりとした髭を僅かに揺らせて竜血樹に目をやった。少年は母親譲りの濃い紫紺色の瞳で、真っ直ぐに老人を見上げている。
 甫民は目を細めた。「どうかなされなされましたか」
 「あれ」整い過ぎて表情に乏しい顔で、竜血樹は路肩にうずくまっている人影を示した。この辺りには浮浪者が多いから、取り立てて珍しいものでもない。そう言い掛けて甫民は眉根を寄せた。
 細く丸みを帯びた体付きに、ゆうに膝裏近くまで届きそうな黒々とした長い髪、どうやらそれは女のようだった。寒さに震える白い顔立ちにはまだ幼さが残る。おそらく二十歳にも満たないだろう。浮浪者そのものは珍しくもないが、女でしかもまだ若いのは滅多に見掛けるものではなかった。
 「先生、あの人は何か芸が出来るのか」甫民を振り仰いで尋ねる一言一言が、冷たい空気の中で白い息となる。
 「お尋ねになられますか」甫民がそう言うと、珍しく少年は笑顔になり、頷いた。そして老爺の手を引いたまま、女の方へと小走りに駆け寄る。
 この国には浮浪者が多い。国家そのものが腐敗し切っている為、職にあり付けない者も後を絶たず、近代国家には不可欠な条件であるはずの『国民の最低限の生活保証』も、建前としては存在するが実際には全く成されていない。また、領土そのものが絶対的に不足しているのもあり、住宅事情は深刻を極めている。問題の解決に当たるべき政府はと言えば「この国はいずれ墓で国土を埋め尽くされる」と形容されるほどに、旧被差別民の虐殺に精を出していると言う。ともあれ、財も職も立場もない者が路地裏に溢れている姿は、この国を最も顕著に象徴しているだろう。浮浪者達は、他者の憐憫にすがるしか生きる術を持たない。公衆食堂等の裏では、よくその日の残り物を貰っている姿を見掛ける。あるいは何らかの芸を見せて日銭を稼ぐ者も多いのだ。
 竜血樹が間近で足を止めると、女――少女と呼ぶには、どこか奇妙な違和感があった――はのろのろと顔を起こした。妙に色の薄い瞳ばかりが痩せた顔の中で目立つ。着る物は薄い一枚で、見るからに寒々しい。長い髪の毛を身体中に絡ませた姿は、この寒い国の冬をやり過ごそうと苦心する小動物のように見えた。
 きょとん、とした顔で女は目の前の少年を眺める。あまりに遠慮のない仕草に多少甫民はむっとしたが、当の竜血樹は全く意に介していない様子だった。うずくまっている女を覗き込むようにして、竜血樹は尋ねた。「お前は、何か芸が出来るか?」
 しばらく女は言葉を反芻するように首を傾げていたが、竜血樹がじっと待っていると、ようやく腑に落ちたと言うように女は笑顔を浮かべた。「はい」
 どこか品のよい笑い方なので、少しだけ甫民は驚いた。
 「歌を唄います」おっとりと女は言った。粗末な身なりに、あまり似つかわしくない仕草だった。それを見て、弾むような口調で竜血樹は言う。「それじゃ、俺に何か唄ってくれるか?」
 女は頷いて、落ち付いた綺麗な声で尋ね返した。「何を唄いましょう?」
 「お前が一番好きな歌を」竜血樹はその場にしゃがみ込んだ。そして老爺にも自分に倣うよう促す。やれやれと甫民も腰を落とす。
 女はにっこりと微笑むと、姿勢を正して薄く目を伏せた。

  春が来たら また花が咲き始める

 透明で柔らかい、だが張りのある美しい声だった。なるほど、これなら生業にしても十二分に許される歌声だろう。
 竜血樹が嬉しそうに瞬いた。偶然にも自分の好きな歌だったということで、無邪気に喜んでいるのだろう。

  だから私はこの春も 花一面のこの丘で

 一方の甫民は、まさか道端で祖国の歌を耳にするとは思っても見なかったので、少なからず驚いた。だが、望郷の念ではない。この歌が意味する本当のところを思えばのことである。

  白い小さな花を摘んで 髪にたくさん挿しましょう

 (この女もまた、華僑か)複雑な思いを感じた。ここでもまた、同郷の者が虐げられている。この歌を耳にする度――竜血樹が口ずさむ度、屠られた幾多の人々を思い出す。仮に世界中がかつての悲劇を忘れるほどに平和になっても、きっと当事者達は何と罵られてもかつての悲劇を忘れることが出来ないに違いない。

  そして春のように優しい人に 逢いに行きましょう

 ぱんぱん、という可愛らしい音が甫民の心を身体に引き戻した。はっとして竜血樹の方を向くと、彼は嬉しそうに頬を薄紅に染めて両掌を打っている。拍手のつもりなのだろうが、音の間が抜けている為にどことなくおざなりに聞こえてしまう。決して彼は拍手を惜しんでいる訳ではなく、むしろ感動を込めて手を打っているのだが、彼の場合つい打つ手に力が入り過ぎて間の飛んだ音になってしまうのだ。何においても竜血樹は、そういう不器用なところのある子だった。
 ふと女に目をやると、一聞気の抜けた拍手を打つ子供ににっこりと微笑んでいる。「ありがとう」
 そしてささくれた細い手をすっと伸ばすと、竜血樹の掌を柔らかく止めた。
 きょとん、と見返す竜血樹に女は優しい声で言った。「ほら、手が真っ赤」
 彼は細い首を曲げて自分の掌を覗き込んだ。そして少し照れ臭そうに笑う。「ほんとだ、真っ赤」
 そして甫民を振り返った。「先生、真っ赤」と言いながら掌をかざす。その姿が可愛らしく、思わず甫民は顔をほころばせた。と、その目の前で竜血樹がくるりと女の方に向き直る。「そうだ、忘れてた」
 竜血樹はコートのポケットをごそごそ言わせて、ぴかぴか光る銀色の小銭を取り出した。彼の、甫民の仕事先で手伝ったことに対する御駄賃だった。彼はコートの袖でちょっと大きめの小銭を拭うと、女の手にそれを握らせた。
 よくわからない、といった風に首を傾げる女に、竜血樹は明るく言った。「また、来てもいいか?」
 ぱっと女は顔を上げた。そしてにっこりと笑う。笑うと年齢の割に、驚くほど大人びて見えた。「はい、お待ち申し上げております」
 竜血樹は嬉しそうに女の笑顔を眺めていたが、そのうちくるりと甫民の方に向き直った。「ごめん、先生。帰ろうか」
 甫民は白い髭を揺らせて静かに頷いた。


 子供と老人の二人連れを見送ると、彼女は掌に握らされた硬貨をまじまじと見詰めた。彼女には、何故あの子供――男の子だと直感的に思ったが、思い返してみるとあの綺麗な顔立ち、確証が持てない――がお金をくれたのかがわからなかった。確かに彼女はここを通る者から金を受け取っていたが、必ずその代価になる『こと』を差し出しての上、のことである。
 それとも、あの子の言っていた『芸』とは、金に替えてもらう『こと』を指していたのかしら、と彼女は考える。だとしたら、あの子供に教えるのはあまりにも忍びない。金の代価としてあの子に支払えるものでもない。
 綺麗な眼をした子だった、と彼女は思った。思いながら古いビルの隙間に月が上るのを見付けた。丸い月に彼女は少しだけ暗い気分を思い出させられる。
 これからが、本当の仕事の時間だった。


  *              *               *


 生乾きの女の金髪に櫛を入れながら、彼は――甫民は言った。「……それで、何と言われたのですか?」
 彼女は、まだかたかたと小刻みに震えながら、しゃくり上げていた。小さな溜め息を落とし、甫民は口をつぐんだ。彼の方はそろそろ落ち着きを取り戻すことが出来たが、当事者である彼女の動揺はまだ大きい。あまり刺激しても逆効果だろう、と彼は慎重に待つ。
 ようやく彼女がぽつり、と話し始めたのは、柔らかい髪の毛がようやく乾き始めた頃だった。「この子を堕ろせって……そうしたら、あの人も懲役刑だけで済ませてやるって……そう、言われました」そして、再び見る見る顔を歪ませると、糸が切れたように泣き崩れた。「ごめんなさい先生。あの人、まだあの国にいるの。一緒に来たかったんだけど、国境警備隊に追い掛けられて、ヤールー川で捕まりそうになって足止めに残ってくれたの。・・・先生どうしよう、あの人に何かあったらどうしよう」
 「大丈夫ですよ」甫民は、櫛を脇の小箱の中に置いて、突っ伏した女を助け起こした。肩を支えられながら、彼女は白い荒れた掌で顔を覆っていた。
 「大丈夫です。あの国の警察には、この国と違って公開処刑権がありません。第一、向こうにとって見ればこれ以上ない格好の人質になるべき身分なのですから、まだ拘置で済まされているはずです。あなたの返事を聞くまでは、殺されはしませんよ」気休めだとわかっていても、そう言わざるを得なかった。実際、前半は事実なのであるし。
 半信半疑で、女は顔を上げた。甫民は、禿げあがった頭の後部に残った黒髪混じりの白髪を指で掻き混ぜた。丁度その辺りに、一切黒髪が混じらない白髪のみの領域があることを知る者は、今やほとんどいない。
 甫民は、いつの間にかすっかり好々爺然として来た目尻に穏やかな皺を寄せた。「大丈夫です。心配は、お腹の子に毒です」
 目許をごしごしと擦りながら、女はようやく顔を上げた。そして、人形のように美しい顔に微笑みを広げた。「そうですね。先生が言うんだもの、大丈夫ね」
 静かに、穏やかに甫民は頷いた。


  *              *               *


 「――先生、何か手伝うことはないか?」
 甫民が本棚に注いでいた目を下ろすと、少年は大きな瞳を瞬かせながら老爺の顔を見上げていた。薄暗い本だらけの書斎で、少し伸びかかった淡い亜麻色の髪が眩しい。
 「今は取り立ててはございませんが」しわがれた声で甫民が言うと、彼は少しだけ残念そうな色を顔に浮かべた。そして背伸びをして、甫民の腕を軽く引っ張る。「ねえ、本当にないのか?何でもいいんだが」
 甫民は首を傾げた。確かに前々からよく手伝いをしてくれる子ではあったが、最近では頼まれもしないのに片付けをしたり、進んで使いに走ったりするようになった。基本的に彼のやることを妨害する気はなかったが、あまり彼を雑用に使い走らせることが気の進まない甫民は、怪訝に思う。
 「陛下」甫民は腰を屈めて竜血樹と目線を合わせた。「私めは、陛下がお心遣いを下さることは誠に嬉しゅうございます」
 きょとん、と細い首を傾げる竜血樹に彼は続けた。「ですが、私めとしましては陛下のお手をかような雑務で煩わせるのは、心苦しい限りなのでございます」
 「別に、そういうつもりじゃ……」ぽつり、と言い掛けた竜血樹の言葉を遮るようにして、甫民は言葉を繋いだ。「陛下は本来、かように粗末なお暮しをする御身分ではないのですぞ。何卒、その辺りをわきまえて下さいませ」
 深い色の瞳を不満げに伏せて、竜血樹は小さく言った。「ならば、俺は本来どのような御身分なのだ」
 甫民は溜め息を吐いてみせる。「ですから……」
 「俺はそんなに偉いのか? 働かなくても金をほしいままに出来る御身分なのか?」綺麗な眉をひそめて、竜血樹は早口に言った。「だとしても、今は本来の状況ではないのだろう。だったら小銭が欲しいと思ったら、俺も働かなくてはならないはずだ」
 甫民は老人特有の細い目を見開いた。「陛下は、お金が欲しかったのでございますか?」
 決まりが悪そうに、竜血樹はこくりと頷いた。そして悪いことが発覚してしまったように目を脇にそらせる。「それは、いけないことか?」
 「場合によりますが」驚きで半ば茫然としながら、甫民は竜血樹の細い肩に節くれ立った手を乗せた。「一体何がそんなに欲しかったのでございますか。仰って下されば、そこまで御所望の物ならば何とでも工面致しましたものを」
 じっと老人が覗き込むと、ばつが悪そうに目を反らしながら、消え入りそうに小さな声で竜血樹は言った。「……違う」
 「何が……」更に追究し掛けて、はたと甫民は思い当たる節に出くわした。そしてまじまじと目の前の子供の端正な横顔を眺める。その頬が、薄っすらと紅色に染まっているのが見て取れた。やれやれ、と甫民は軽い溜め息を吐く。
 老人は、懐に手を突っ込むと、中から小銭の詰まった巾着を取り出した。そしてその口を開け、銀色の小銭を五つ取り出した。「陛下」
 そっぽを向いていた竜血樹は、恐る恐ると顔を向けた。そして、目の前に突き出された小銭に気付き、それを面食らったように見詰める。
 「これも大切なお金ですからね。大切にお使い下さい」甫民は、五枚の小銭を大切そうに竜血樹の白い掌に握らせた。自分の掌中の小銭をしばらくじっと見詰めていた竜血樹は、突然弾かれたように顔を上げた。そして照れ臭そうな笑顔を満面に浮かべる。「先生、ありがとう」
 甫民は目尻に深い皺を寄せて言った。「お出掛けになられるのでしたら、何卒お気を付けて下さいまし」
 子供なりの大きな仕草で竜血樹は何度も頷いた。そして、くるりと背を向けるとぱたぱたと玄関の方に向かって駆け出した。すぐにでも飛んで行きそうな彼の後ろ姿に、甫民はもう一言付け加える。
 「陛下、帽子を忘れてはなりませんぞ!」


 亜麻色のさらさらと細い髪の毛を帽子の中に押し込んで、せわしなく竜血樹は表に飛び出した。靴の踵を踏んだままだったのに気付き、走りながらそれを整える。羽織っただけのコートや掴んで来ただけのマフラーと手袋をじれったげにはめながら、ゴミの散乱した細い路地を曲がる。
 浮浪者はいつも見掛けるが、同じ人間が一ヶ所にいつまでもいることは滅多にない。理由は何となく知っていた。――あくまでも噂なので、あまり確かなものでもなかったが。ともあれ、今日もまだあの場所にあの女がいるかは自信が持てなかった。会って、言葉を交わすまでは。
 寒そうに身を縮めて、女は今日もあの壁の前にうずくまっていた。ほっと胸を撫で下ろしながら駆け寄ると、その足音に気付いた女はゆっくりと顔を向ける。そして駆け寄ってくるのがいつもの子供だと確かめ、穏やかな微笑みを見せた。自然、竜血樹の面にも笑みが零れる。
 息を切らせて立ち止まる竜血樹に、柔らかい声で女は話し掛けた。「今日も来てくれたのね。ありがとう」
 竜血樹は、肩で息をしながら紅潮した顔で言う。「また唄ってくれ。頼む」
 既に了解していたように、女は静かに頷いた。さらり、と綺麗な黒髪が顔に掛かる。それが息を飲むほど美しく、思わず竜血樹は女の顔を覗き込むように見詰めていた。唄おうとして視線に気付いた女は、軽く首を曲げて竜血樹の瞳を見詰め返す。「どうかしたの?」
 青みがかったような複雑な色の瞳にたじろぎ、竜血樹は慌てて少し目を反らした。「いや……別に何でもない」
 だが、女は心配そうにその顔を覗き込ませて来る。「本当に?」
 そして、仄かな薄紅に染まった頬を見て取り、首を傾げた。「顔が赤いみたい。大丈夫?」
 黙ったまま、竜血樹は頷いた。「今日は特に寒いから、だと、思う」
 女は、困ったときのように微かに眉を寄せた。
 「ごめんね、わざわざ来てもらっちゃって」心底申し訳なさそうにそう言うと、彼女は竜血樹の帽子を深く被り直させた。「でも、会いに来てくれて本当にありがとう。わたし、本当に嬉しいわ」
 ふと、女の掌が竜血樹の頬に触れた。冷たくささくれた、固い掌だった。そして今更のように、女の寒々しい服装に気が付いた。
 竜血樹は顔中をますます真っ赤に染め、俯いた。心配そうに見詰める女に横目をやると、彼は首に巻いたマフラーをいそいそと解き始めた。そして、それを女の鼻先に突き出す。きょとんと彼の顔を見る女に業を煮やし、竜血樹は彼女の細い首にマフラーをふわりと巻き付けた。「お前こそ風邪引くぞ。喉を痛めたら唄えなくなる」
 女は少し困ったような顔をしたので、無理矢理笑顔を作りながら竜血樹は更に言った。「早く歌ってくれ」
 ふと女は、蕾が解けるような笑顔を見せた。


 「それじゃ、この歌には続きがあるのか」竜血樹は驚いて、女の顔を覗き込んだ。彼女は柔らかく微笑む。「ええ、そうよ。四番まであるの。春夏秋冬、四季を唄った歌だもの」
 「知らなかった……」帽子に手をやりながら竜血樹は言った。大好きなあの歌が、実は四分の一の長さでしかなかったなんて、と考えると、不思議ですらあった。
 女は、竜血樹の目を見詰めながら言った。「唄おうか?」
 ぱっと顔を起こすと、彼は嬉しそうに頷いた。「うん!」

  夏が来たら 河の水は流れ始める
  だから私はこの夏も 険しい峠を見上げながら
  小さな船を一艘繰って 河を下って行きましょう
  そして夏のように強い人に 逢いに行きましょう

 「どう?」
 女は首を傾げた。ぽお、とした顔をしていた少年は、弾かれたように自分の手を打つ。「何だかちょっと変な感じがする。でも、いい」
 彼は嬉しそうな顔をしていた。それを見ると、自分まで嬉しくなって思わず女は言った。「それじゃ、三番も唄おうか」
 「ちょっと待って」少年は女の顔に掌をかざして制止した。そして、何か真剣に考え込むような面持ちになる。「……やっぱり、いいや」
 「どうして?」女が首を傾げるので、彼は付け加えた。「明日にとっておく。明日もここにいるな?」まだ、どこか名残惜しそうな雰囲気ではある。
 少し驚いたような顔をしたが、すぐに彼女は微笑んだ。「そうね、約束しましょう。明日も、ね」
 子供じみた仕草で、少年は頷いた。「うん!」


  *              *               *


 「ただ」この話題を切り出すのは、甫民にとってひどく心苦しかった。「陛下は、ヤールー川を越えることが出来ません。あの国は国家の威信を賭けても、一旦捕えた陛下を国外に逃しはしないはずです。あなたが陛下と共にあることを望むのなら、あなたがあの国に戻るしかありません」
 だが、髭に覆われた彼の顔からは、ほとんど表情を覗えない。かつて、かの国に雇われ「完璧な工作員」と詠われた甫民の、その眼光だけが何かを孕んでいた。
 女は、柔らかい金髪を揺らせて振り向いた。「先生?」
 きょとん、とした顔をしている。少しだけ、良心が痛むのを甫民は感じた。
 彼女は何度か大きな目を瞬かせた後、どことなく悲しそうな顔をした。「わたしは、あの人といたいです」
 「では、選択して下さい」甫民は、静かに言った。どこかで、外に積み上げられていた物が崩れる音がした。雨足が強まって来ているらしい。「私めの本来の仕事は、素乾王家を――素乾王朝直系の令嗣をお守りすることです。しかし如何せん、陛下達に害を及ぼすのはあの国家そのもの。双方お守りしようにも、所詮私風情では、片手落ちで陛下も御子様も守り切れなくなってしまいます。ですから――父君になられる正楼樹(ションロンシュ)陛下か、これから生まれて来られる御子様か、どちらかを選択して下さい。私めは、そちらだけを全力を込めてお守り致します」
 女は、董色の瞳を微かに見開いた。「それは、つまり……」
 「そうです」甫民は目を伏せて頷いた。「勿論、全力は尽くします。けれど本当にもしものときには、片方を見捨てるということです」
 家の中の温度が、急に下がった気がした。冷たい雨の音が響いていた。


  *              *               *


  秋が来たら 白い渡鳥がやって来る
  だから私はこの秋も 神様が住むこの峰を
  北風が吹き始める前に 羽根のように飛び越えましょう
  そして秋のように澄んだあなたに 逢いに行きましょう

 竜血樹は、あの女が唄う歌を口ずさみながら、足繁く彼女の元へと通った。ただ、道端に一緒に座り込んで言葉を交わし、彼女の歌を聴くだけなのに、何故かそれだけで楽しかった。甫民からの小遣いを、ほとんど全部女に貢いでしまっていたが、それでも彼は満足だった。彼女と並んで座っていると、マフラーも片方の手袋も彼女にやってしまったと言うのに、寒くなかった。時折ぼんやりと感じていた寂しさも、忘れることが出来た。辛いこと、悲しいこと――まだ幼い彼が背負うには重過ぎる世の憂いを、彼女は拭い去ってくれた。
 だが甫民は、竜血樹が女に会いに行くことに当然あまりいい顔をしなかった。決して幼い少年を抑圧したい訳ではない。だが。
 「――素乾六百年の誇りを、汚す訳にはいかないのです。陛下が下賎に身を落とすようなことがあれば、陛下の祖廟に顔向けが出来ません。どうか、あの女との付き合いはこれまでになさって下さい」
 これまで、甫民の言うことには必ず大人しく従って来た子供だった。だから、今回もそうだと知らずの内に信じていた。だが、その期待は呆気ないほど簡単に、竜血樹本人によって否定された。
 竜血樹は言った。「民に貴賎なしと教えたのは、先生だ。俺はそう教えてくれた先生のことを尊敬している。だから、祖廟があいつと会うことを恥じると言うのなら、俺は祖廟の方を恥じざるを得ない」
 ――そう、言った。
 情けないと自覚しているのだが、その後甫民は竜血樹にどのような言葉を掛けたのか思い出せない。ただ、気付いたときには既に、帽子の中に亜麻色の髪の毛を押し込んだ竜血樹が玄関から外に飛び出していた。
 ふと、小さな借家に所狭しと並んだ本棚に目をやった。若い頃から、わからないことが起こると必ず本で調べるように習慣付けていた。その甲斐あってか、今ではわからないことなどほとんど無に等しい。――久しぶりに、わからないことに直面した。一体、何が正しいのかわからない。竜血樹を――最近よく笑うようになった彼を――どのように扱えばいいのかわからない。あの女と会わせることが、果たして間違っているのかがわからない。だから、その解答になりそうな本を無意識の内に探していた。
 ふと、一冊の古風な装丁の本の背表紙が目に止まった。筋の浮いた手で、その本を手に取る。表紙には、昔の文字で題目が書かれていた。
 節くれ立った指で、頁を一枚ずつ捲る。王朝時代に、皇帝の後宮に仕える后妃達――宮女の教育の為に編纂された、教養を指導する為の教科書だった。手に入れた当初は上下巻だったが、何となく便利も悪い気がして甫民が一冊に装丁し直したものだった。
 前半のとある一頁に、小さな落書きが書かれているのに気が付いた。古い書体で書かれたその落書きは、おそらくその本のかつての持ち主であった若い宮女のものだろう。以前この本を開いたときには気にも留めなかった文字の羅列が、今は妙に引っ掛かった。読み辛い、小さな下手な文字だった。

  漸我覚書 応可読万歳爺書
 (ようやく文字を覚えた これで皇帝陛下からの手紙を読むことが出来る)

 流暢とは程遠い文章だった。端から見ると、ほんの些細な出来事だったに違いない。だがこれを書いた宮女にとっては、大切な教科書に思わず書き込んでしまうほど重大なことだったのだろう。それが、痛いほど伝わって来た。
 甫民は、無言のまま三、四回その言葉を黙読した。そして、小さな声で一度だけ音読した。「――漸我覚書 応可読万歳爺書……」
 そして、自嘲するような笑みをかさかさに乾いた唇に浮かべた。
 「これが、答えか」


 いつもの路地を曲がる寸前で、竜血樹は足を止めた。曲がり角に面した小さな公園に、あの女の姿があった。爪先を公園に向けて駆け出す。
 女は、公園の水道のところで髪を洗っているようだった。真っ赤になった手で、女は髪を絞っており、たっぷりと水を含んだ長い艶やかな黒髪が、重そうに雫を落としていた。
 冷たいコンクリートの水道台の台座に、竜血樹はぴょんと飛び乗った。「今日も来たぞ」そう言いながら、女の顔を覗き込んだ。そして、少しぎょっとして台座から飛び降りた。
 ほとんど凍る寸前の冷たい水でぐっしょりと濡れた女の顔は、どういう訳か傷だらけだったのだ。頬に大きな擦り傷が出来ていて、目許には痛々しい青痣がくっきりと浮かんでいる。よく見たら、撥ねた水で濡れたらしい服には泥が付き、所々が裂けている。濡れた布から、鼻に付く嫌な臭いがした。
 「あ、ありがとう……」彼女は微笑んだが、その声は青褪めた唇同様に震えていた。唇の端だけが赤いのは、どうやら切ってしまった為らしい。見るに堪えないほど、痛々しい姿だった。彼女は腰を折って、まだぽたぽたと水を落とす髪の毛を排水溝の方に垂らしていた。地面に付かないように髪を支える腕にも、細かい傷が無数に付いている。
 思わず声を詰まらせながら、竜血樹は言った。「何で……こんなひどい」
 女は笑おうとしたらしいが、どこかが痛んだらしく表情を歪めた。どこが痛んだのか、もはやわからないほど満身創痍だった。「だ、大丈夫。心配、しないで……」
 彼女は、水道台の上に置いてあったマフラーと片方だけの小さな手袋を取った。そして、濡れた髪の毛で服をこれ以上濡らさないように注意を払いながら、のろのろとベンチの方へと歩き出す。竜血樹もぱたぱたと追い掛けた。袖が裂けて剥き出しになった女の腕にちょっとだけ触れてみる。――氷のように冷たかった。
 「大丈夫なはずがない。このままじゃ風邪を引く。ちょっと待ってろ、すぐ毛布とか持って来るから」慌てて駆け出そうとしたら、女に手首を捕まれた。簡単に振り解けそうなほど力がなかったので、かえって竜血樹は足を止めた。反射的に彼女の方を振り返る。「……どうした?」
 女は、静かに首を振っていた。「大丈夫……慣れてるから」困惑したように見詰めてくる竜血樹に、もう一言付け加える。「ごめんね、今日はちょっと唄えない。だから、帰ってもらえる?」
 竜血樹は、物凄く悲しそうな表情を浮かべた。すっと女は彼から目を反らす。「ごめんね。また、唄うから。だから今日は――」そして、倒れ込むようにしてベンチに腰を下ろした。付き添うように竜血樹もその隣に腰掛けた。細長い石の固まりにペンキを塗っただけの背もたれさえないベンチは、氷のようだった。
 「おい、本当に大丈夫か?」ポケットを調べたが、ハンカチがなかった。仕方がないのでコートの下に着ているセーターの袖で、氷水が滴る女の顔を拭ってやる。だが、それさえ女は手の甲で払った。「汚れるから、駄目」
 「だって……」竜血樹の言葉を、女は心なし険しい口調で遮った。「わたしは汚いの、わたしに構ってたら、あなたまで汚れてしまう。お願いだから、帰って」
 そして、のろのろと女は余所を向いた。濡れたまま冷たい光沢を放つ黒髪だけが、竜血樹の視野を覆ってしまう。急に竜血樹は、寂しいような腹立たしいような気持ちに襲われた。衝動的に被っていた帽子を引っ掴み、女の背中に投げ付けた。帽子の中に押し込まれていた前髪が、ぱっと白い額に散る。
 驚いたように振り向いた女に向かって、彼は叫んだ。「お前は、綺麗だ! 汚くない、絶対に汚くない!」
 実際に、女は驚いているらしい表情をしていた。長い睫毛に縁取られた淡い瞳が、大きく見開かれる。頬を真っ赤に染めた竜血樹に睨まれて、彼女はおずおずと目を細めた。「……」
 竜血樹は更に激しい声を投げ付けた。「お前は、凄く綺麗だ! そんなことを言うのは許さない」
 力なく顔を伏せて、ゆっくりと女は首を横に振った。「……わたしは」
 「俺の言うことに逆らうのか!?」違う、言いたいのはこんな言葉ではない。だが、心とは裏腹にきつい言葉が飛び出してしまう。俯いたままの女の袖に掴み掛かりながら考えた。どうして自分はこんなに不器用なのだろう。どうしたら、彼女は信じてくれるのだろう。彼の深い色の瞳は、じわりと涙ぐんでいた。「何で俺が言うことに逆らう、何で信じてくれない! お前は綺麗だ、綺麗だ綺麗だ綺麗だ……何で――」
 柔らかい頬に、涙が零れて伝った。「何で、信じてくれない?」
 女はじっと瞼を閉じていた。そして、重たげに口を開いた。「……その髪」
 「俺の質問に答えろ!」噛み付くように竜血樹は叫んだ。悲しくて、苦しくて、胸が痛かった。「何で俺が言うことを信じない」
 小さな声で、女は呟いた。少し息が苦しそうなのは、ずぶ濡れの服の裾が凍って肌に貼り付いている為だろうか。「……あなたはまだ小さいからわからないだけなの。お願い、今はまだわからなくても、その内わかるようになるから、だから」そして、喘ぐような溜め息を一つ吐いた。「早く帽子を被って帰りなさい。誰にも言わないから、人に見付からない内に帰りなさい」
 「俺が子供だから?」竜血樹は、寒そうな女の服の胸座を掴んだ。意外なほどに、服の生地は薄くて冷たかった。「俺が子供だから、信じてくれないのか?」
 女は、哀しそうな眼をした。そして何か言おうと口を開いた。――だが次の瞬間、弾かれたように自分の隣に落ちた竜血樹の帽子を拾い上げた。「早く被って。」緊張を顔に浮かべながら、それを竜血樹に押し付けるように手渡す。
 何が何だかわからない竜血樹は、思わずきょとんとした。「え?」
 「……この時間だと、公安の巡回だわ。早く髪を隠して」業を煮やした女は、震える手で竜血樹の亜麻色の髪の毛に帽子を被せようとした。だが、なかなか上手くいかないらしい。表情に焦りの色が浮かぶ。
 怪訝そうに眉をひそめながら、竜血樹は首を傾げた。「何で……」
 公園の入り口に目をやりながら、そわそわと女は早口で言う。「外国人は、殺され……」
 そして、素早く首を振ると小声で呟いた。「駄目、間に合わない!」そのときになって、ようやく竜血樹にも複数の大人の足音が聞き取れた。
 (陛下、決してその御髪を人目にさらしてはなりません)不意に、甫民の言葉を思い出した。理由はよく知らないが、彼は竜血樹の髪の毛が人目に触れることを極端に恐れていた。甫民はその理由を教えてくれなかったし、自分自身にひどく無関心な竜血樹自身も、今までその言葉の意味を考えたことがなかった。
 (ころされ……)徐々に足音が高まって来る。慌てて竜血樹は帽子のつばを押さえたが、しばらく切りそびれて伸びていた襟足が上手く隠れてくれない。そのとき突然、女が公園の入り口の方を振り返った。つられてそちらを見ると、ちらりと黒っぽい人影が視野に入る。そして思わず、彼はぞくりと身震いした。
 一瞬でわかった。人影の手には、大型の銃が握られていたのだ。


 不意に、彼は自分の身体がベンチの後ろに倒れ込むのを感じた。ぐらりと揺れながら、あの女の細い腕と曇った空が目に映る。――ベンチの後ろに押し倒されたのだと竜血樹が気付いたのは、女の濡れた髪が自分の顔に掛かってからだった。
 ざ、と近付いて来ていた足音が止まった。少し首を動かすと、独特の制服を着た公安当局員が二人、公園の入り口から竜血樹等の方を向いているのが見えた。彼は、女の腕の下で仰向けに寝そべったまま息を詰める。警官に警戒した為かもしれない、あるいは息が掛かるほど近くにあの女の顔があるからかもしれない。
 だが、女は竜血樹を見てはいなかった。顔に掛かる艶やかな黒髪の下、険しい表情で公安達の方を見詰めている。
 「あ」竜血樹は小さな声を挙げた。こちらを見ていた公安の一人がつかつかと歩み寄って来ているのだ。セーターの下を冷たい汗が伝った。と、そのとき女の白い掌に口を塞がれる。驚いて目を見開くと、彼女はもう片方の手を服に掛けて胸元をびっと大きく引き裂いた。彼女の意図がさっぱりわからないものの、顔のすぐ前に赤痣だらけの白い女の胸があり、目のやり場に困った竜血樹は取り敢えずきつく目を閉じた。
 「あら、お久しぶりね、公安様」女の体温が少し離れた。どうやら彼女は身を起こしたらしい。取って付けたような馴れ馴れしい口調だ、と竜血樹はいぶかしむ。ふと、顔や腕に彼女の髪や服の布が掛けられるのを感じた。そんなもので隠せるのだろうか。
 鷹揚な男の声が聞こえた。さっき近寄って来ていた中年の局員のものだろう。「お前、こんなところで何をしてい……」そう言い掛けて、男は言葉を途切らせた。どうしたのだろう、と竜血樹は恐る恐る薄目を開く。
 彼女は、大きく裂いた服の胸元をはだけさせて微笑んでいた。作り物めいた笑顔は、どこか警官を睨み付けているようだった。
 「何って、そんな野暮なことを」女の声音は、いつも聞き慣れた優しいそれではなく、表情同様作為的で挑発するようなものだった。
 公安が更に近付いて来たので、女は竜血樹の頭を抱えるようにして再び伏せた。わざと公安に聞こえるように囁く。「邪魔が入ったわ。今日はここまで」
 そして、女はしどけない仕草で立ち上がった。はっとした竜血樹が頭部に手をやると、既に亜麻色の髪は帽子とマフラーで隠されていた。弾かれたように彼も立つ。その姿を見て、公安が呆れたような声を出した。「子供のお守りか、暇なことだな。それとも、こんなガキでも客を取るのか?」どうやら彼は、竜血樹を女の子だと誤解しているらしい。
 自分に話題が振られ、びくりとして彼等に背を向けると、背後から作り物の彼女の声が聞こえて来た。「この子はお客様よ、あなたと同じ」
 中年の警官は唖然とした。竜血樹が客だということに驚いたのか、それとも男だということに驚いたのだろうか。くすっと女は短く笑い、付け加えた。
 「色々教えてあげてたの。お金を出すなら歳は関係ありませんことよ。そうでしょ?」ちょっとだけ振り向いて見ると、彼女は公安の腕に身体を絡め、その固そうな頬に唇を押し当てていた。男の顔がどことなく紅潮しているように思える。見てはいけないものを見てしまったようで、慌てて竜血樹は目を反らす。
 と、そのとき公園の入り口でこちらを見ていた別の公安が咳払いをした。はっと我に帰った中年の男は、ばつが悪そうに言う。「ふ・・・不謹慎なことを。本官は勤務中だ」「あら、ごめんなさい」
 ぱた、と不意に水の滴る音がした。髪から落ちた雫で彼女の服が濡れてないか気になったが、どうしても竜血樹は振り返ることが出来なかった。代わりに、何とか声を絞り出す。「あ、あの……」
 女は、竜血樹の方を向いたらしかった。「坊や、今日のところは邪魔も入ったことだし、お代はいらないわ。お家にお帰り」
 言われなくても帰ろう、と思っていた。帰らなくては、殺されるかもしれない。一刻も早くこの場から逃げなければ。――そう思いながら、片足を踏み出した。その瞬間。
 「さっきここに毛色の変な輩がいたように見えたのだが」公園の入り口に立っていた、若いが鋭利な感じのする局員が言った。細めの眉を歪めると、彼は竜血樹の方に視線を投げ掛けて来る。ぎくりとして、竜血樹は思わず凍り付いたように立ち止まった。
 彼は鷹揚な口振りで言った。「少年、お前、本貫姓名は」
 詰問するような口調に、竜血樹の頬がこわばる。「ポングァン……?」
 彼の知らない言葉だった。
 血縁を重んじるこの国には、各家系毎に本貫(ポングァン)と呼ばれる家系の始祖の出身地が伝わっている。本貫姓名で、その人物の成分(本人から三代前までの家系の職業階級に基づく身分)は知ることが出来ると言う。この国の人間なら、どんなに幼い子供でも知っているとさえ言われる事柄だが、生まれが外国で、しかも今までごく限られた人間としか接したことのない竜血樹には、それがわからない。青褪めて、立ち尽くすしかなかった。
 「新義州(シンウィジュ)のリューって言ってたわよね、フェイロン?」突然、女はそう言った。一瞬自分のことだとわからなかったが、振り向くと彼女の淡い色の瞳と目が合った。綺麗な、優しい色合いだった。震えながら、竜血樹は何度か頷いて見せる。微かに女は笑った。
 若い局員は、少し驚いたようだった。「ほう、新義州の劉氏と言えば、両班(リャンパン・旧貴族のこと)の家柄か。さすがはガキの分際で、女遊びに手を出すだけある。ところで女、お前は?」
 竜血樹の方を向いたまま、彼女は言った。「さあ。家なし名無しだもの、そんなの知りません。しいて言うなら、冥土の無名氏とでも記録しておいたらどうですの?」
 「ふざけているのか」近くに来ている中年の公安が鼻白んだ。目を細めて女は睨む。「あら、だってわたしの祖先は皆鬼籍に入ってますもの。本貫が冥土でも、理屈は通っていませんこと?」
 ふと、若い方の警官が愉快そうに笑い出した。
 「なるほど。お嬢さん、随分とあんたは賢いらしい。慮同志、いつまでも足止めを食らうのも何ですから、そろそろ先に行きませんか」
 慮、と呼ばれた中年の公安は太い眉の根元を寄せた。「しかし、疑わしきは罰せよと……」
 ふと若い男の方は、微かに歪んだ笑みを浮かべた。「どうせ、ここら辺は明日辺りにアレが回って来るはずです。何も我々が手を出す必要はないでしょう」「あ、ああ……」慮局員は頷きながら、女の方を未練がましく振り返った。
 だが、すぐに若い公安の立っている方に戻って行く。どうやら、歳こそ上だが彼の成分は青年よりも低いらしい。女は、微笑みながら二人に手を振った。彼等への笑顔は、最後まで作り物のままだった。
 半ば茫然としながら、竜血樹は女の背に向かって話し掛けた。「お前……」
 彼女は、振り返りもせずに言った。「……これでも、まだ綺麗って言える?」
 心を押し殺した声だった。思わず竜血樹は俯いてしまった。
 しばらく沈黙が続いた後、竜血樹は極力静かに言った。「俺は、帰るべきなのか?」「ええ」女は緩やかな仕草で頷いた。「お願い、帰ってちょうだい」
 迷ったが、彼は首に巻かれたマフラーを再び解き、石のベンチの上に置いた。そして、少しだけ女の方を盗み見たが、帽子を両手で押さえるとそのまま公園から駆け出した。一度だけ振り向いたが、彼女の表情は見えなかった。
 何故だか、ひどく悲しかった。
 どうしようもなく、悲しかった。


 甫民は部屋の扉を叩いた。「陛下、御夕食の用意が整いましたが」
 「いらない」固いベニヤ張りの扉越しに、ひどく覇気のないくぐもった声が聞こえて来た。出掛ける為にコートを羽織った甫民は、困ったように衿を立てて軽く首を振った。
 昼過ぎに帰宅して以来ずっと、竜血樹は自室に篭っていた。何かあったのか、と尋ねてみたが、ろくに返事も返って来ない。今までになかったことなので、どうしても甫民は途惑ってしまう。
 「私めはこれから出掛けて参るのです。帰りは遅くなると思われますので、何卒お早めに御食事を……」「いらないってば」やはり、素気無い返事だった。「先生こそ、そろそろ出ないと遅れる。俺のことはほっといていいから」
 甫民は、廊下に掛けた壁時計をちらりと見た。確かに、そろそろ出掛けないと、帰って来たときにとんでもない時間になってしまいかねない。しばらく老爺は部屋の中に向かって呼び掛けていたが、ついに溜め息を吐いて諦めた。
 出来る限り優しい声で、甫民は言った。「陛下、申し訳ありませんが私めは出掛けて参ります。御食事はきちんと召し上がって下さい。それと、戸締りにはくれぐれも御注意をお払い下さいませ。よろしいですな、お留守番をよろしくお頼み申し上げましたぞ」
 そして何度か部屋の扉を振り返りながら、甫民は玄関から外に出た。かちり、と音を立てて家の鍵を掛け、空を見上げた。だが空は曇っていて、月も星も見えなかった。氷点下の寒さに吐く息が真っ白になる。
 「全く……」彼の白くなった呟き声も、夜闇の中にすぐに溶け込んで行った。


 竜血樹は、自室のベッドの中に潜り込んでいた。柔らかい毛布に顔を埋めながら、彼は甫民が家から出て行く音を聞いた。普段なら甫民の仕事には必ずと言ってよいほど付いて行く竜血樹なのだが、さすがに夜遅くになる仕事は、頑として甫民が共を許さない。そしてそれ以上に、今日の竜血樹には彼に同行する意志がなかった。
 オンドル(床暖房)の効いたベッドの中で、竜血樹は寝返りを打った。
 甫民の仕事が、常に命の危険と隣り合わせなのは知っていた。具体的な仕事の内容を教えてもらったことはほとんどないが、それでも四六時中くっ付いていたら、彼の仕事が違法なものであることぐらいは見当が付いている。いつ撃たれるか、わからない仕事である。
 竜血樹自身、自分が巨大な共産政権に狙われる獲物だとは自覚していた。気を付けろ、とくどいほどに甫民に言われて育って来た。狩られる理由は単純極まりない――彼の血筋の為だ。
 (わかってる、わかってるそのくらい)
 だが、実際に身の危険にさらされたのは、今日が初めてだった。いつも大抵甫民が傍にいて、庇ってくれていて、それが当然だと思っていた。――今回はあの女の機転で何とかなったが、彼女がいなければ今頃自分は、屍骸になっていたかもしれない。それを鼻先に突き付けられたのは、初めてだった。
 自分の前髪を引っ張って、竜血樹は眺めて見た。確かに他の人とは全く異なる色をしている。生まれつきだから仕方がない、とこれまではほとんど気にしたこともなかったその色が、今だけは無性に忌々しかった。
 おもむろに、彼はもこもことした動作でベッドの中から這い出した。窓に掛かった分厚いカーテンを少しだけ開いてみると、ガラスを二枚重ねた窓は真っ白に曇っていた。柔らかい掌で結露を落とそうとすると、凍るように冷たかった。
 (あいつ――どこで寝るんだろう)ふと、ひどくそのことが気に掛かった。自分のことを「汚い」と言った彼女。言葉の意味がわからなくて、彼女にあんなに悲しそうな表情をさせてしまった。
 (……きっと今頃、どこかの男に買われてるはずだ。でなきゃ、凍える)
 ふと日中の公安達に絡み付く彼女の姿が浮かんだ。確かにそれはひどくおぞましいことのように思えたが、そうしなければ生きられなかったのだと思うと、むしろひどく哀れに思えた。そう言えば竜血樹自身がそうであるから全く考えもしなかったが、彼女にも家族はいないのだ。自分には、身を呈して守ってくれる、強くて便りになる甫民がいつも傍にいるが、彼女には守ってくれる存在がどこにもいないのだ。
 女の身で生きるには、この国は余りにも厳しい。家のない彼女が凍死せずに夜を過ごすには、どこかの男の腕の中に身を置くしかない。逆に言えば、そうしていなければ一夜で凍えてしまえるほど、この国の冬は厳しいのだ。
 (――あの場所に、あいつはいない。いないんだから)
 形のよい眉を歪めながら彼はそう考えた。そして、はたと再び窓に触れてみた。
 でも、もしかすると。
 妙な予感がした。


 路地の中央に、固く身体を丸めた男が転がっていた。薄汚い身形に眉をひそめ、甫民は彼を遠巻きにしながら傍を通過しようとする。そして、通り過ぎざまに点滅する街燈でその顔を覗き見た。既に、血の気が完全になくなった凍った顔だった。――男は、凍死した浮浪者の一人だった。
 (明日、陛下が通るまでに片付けておかねば)子供の目に触れさせたいものではない。早朝にこの辺りを『清掃』することが冬場の日課になっている甫民が、無表情のままそう考えた瞬間だった。
 「……あの、『先生』ですよね」
 おずおずと、若い女の声が聞こえて来た。甫民が首を廻らすと、崩れ掛けたコンクリート壁の影からあの髪の長い女が、何故か青痣の出来た顔を覗かせていた。甫民は少し首を傾げて見せる。
 女は、白い顔に安堵の表情を浮かべたらしかった。「よかった、お会い出来て」
 「私は急いでいるのだが」素気無く甫民は言った。彼女の首に、見覚えのあるマフラーが巻かれているのが見えた。真新しくて、男物で少し短い。
 夕刻以降の竜血樹の不機嫌に、自分までが気落ちしていた甫民は、知らずの内に彼女に険しい表情を向けていた。もっとも、白い髭で覆われた老爺の顔色を、こんな夜闇で見分けられるのかどうかは甫民自身興味がない。
 ふと小さく女は頷き、何かを探しながら呟くように言った。「ええ、お時間はお取らせ致しません。――これを」
 不意に首のマフラーを、彼女は目の前で解いた。そしてそれと一緒に彼女が両掌を差し出したので、やむなく甫民は近寄って見る。その掌の中に、片方だけの手袋と沢山の小銭が入っていた。
 甫民は怪訝な顔をする。「これは?」
 体温で白く曇る銀の硬貨に目を落としながら、女は言った。「――あの子が、くれた物です。貰う訳にはいきません、お返しします」
 「どうして……」言い掛けた甫民の言葉を、彼女は柔らかく遮った。「わたしは、あの子にお金をもらえることを何もしていません。だから、お返しします」
 そして、悲しそうに微笑んだ。「すみません、少し足りないの。昨夜、盗られてしまいました」
 ようやく甫民は、彼女の痣の理由を知ることが出来た。
 案外優しい声で、甫民は女に語り掛けた。「小姐(シャオジェ)、それはあなたが取っておきなさい。あの子の気持ちだ、受け取っておあげなさい」
 それでも、彼女は微かに首を振った。「気持ちだけで十分です。それに、これはもうわたしには必要ありません」そう言って、掌を甫民に向かって更に差し出した。
 はたと、甫民もあることを思い出した。「……それでは、明日からはここにいないのだね」
 女は何も言わなかった。その掌から小銭を受け取ると、甫民は手袋を彼女に押し戻し、彼女の細い首にマフラーを巻いて整えた。「――息災で」
 「はい」女が頷くと、その顔に黒髪がさらさらと掛かった。
 所々が凍った、冷たそうな髪の毛だった。


  *              *               *


 当時、甫民はある残酷な仕事を課せられていた。
 この国はかつて、国民の十分の一とも言われるほどの人数の浮浪者を抱えていた。彼等の大半は戦時中のどさくさで一掃されてしまったはずなのだが、近年、彼等の数が徐々に増え始めていたのだ。
 彼に課せられた任務は、再び彼等を『片付ける』ことだった。大戦からおよそ四十年、その間に世界秩序は大きく整い、戦時中のように乱暴な方法で浮浪者を抹消しようとしたならば、全世界から批難にさらされることが必至だったのだ。
 だから、甫民は今だかつてない残酷で卑怯な方法を国家に提案した。
 「非勤労民を、輸出用資源として利用せよ」というものである。
 いつの時代でも、人間は非常に高く売れる。売られるのは常に貧しい国の下層民で、買うのは例外なく文化の先端を行く先進国である。そして、不思議なことにその需要は絶えることがない。
 「例え奴隷は根絶されても、娼婦は根絶されることがない」と直筆の密書の中で甫民は述べている。事実、彼の案が採択されて一番に国内から姿を消したのは、若くてひどく貧しい女性だった。
 そして「医学が急速に発展しつつある今日、移植技術が更に伸びて行くのは火を見るよりも明らかである」として、甫民は「浮浪者の臓器を輸出」することも提案した。労働者として売るよりも、その方がずっと高値で売れると言うのである。それら一連の案は、ほとんど改正も加えられず全面的に採用された。
 浮浪者の扱いに対して「人道的観点」からクレームを付けてくるのは欧米を中心とした先進諸国だが、現実に人間を買うのもそれらの国家なのである。それを前提にして、彼はその案を打ち立てた。甫民は、彼等から予想される批難までも先回りして封じてしまったのだ。
 「人間は、自分の欲の為にしか動かない」当時の甫民は、好々爺然としたその顔で、常々そう言っていた。かく言う自分自身もそうだと信じていた。だからこそ、そんな残酷な意見も提出することが出来た。
 ――だからこそ、あの金色の髪を持った、母となるべき美しい女性に、あんなことを言えたのかもしれない。


  *              *               *


 『それ』は、既に昨日の夕暮れ時までに彼女の元にも巡廻して来ていた。
 「今度、浮浪民を救済する為の新しい事業が興されることになりました」中年の、暖かそうなコートを羽織った男は変な笑いを浮かべながらそう言った。
 「北部にダムを作ることになったんです。労働者は、偉大なる総統陛下の御提案で、あなたのように仕事を持てない人々を雇うこととなりました。工期の衣食住は保障されていますし、女性には女性に可能な仕事内容が割り振られることになっています」出来過ぎた話だった。「明後日の明朝、ここに来て下さい。何も持たなくても構いません、身一つで来て下さい」
 男はそう言うと、彼女に小さな紙切れを差し出した。それには、簡単な地図が描かれていた。
 世界はそんなに甘いものではない、と彼女は身に染みて知っていた。男の言う内容も胡散臭かったし、第一彼の言葉が本当なら、この寒い北国で二晩も浮浪者を放置しておくはずがないだろう。本当に国家に――総統に浮浪民を救済するつもりがあるなら、そこに転がっている男は凍死なんかするはずがない。第一、不穏な噂も何度も耳にしていた。――連れて行かれると、二度と生きては戻れない、という類のものだった気がする――無理矢理連れて行かれそうになって、命辛々逃げたこともあった。確か、夏頃だった気がする。
 だが今回、彼女はあの男の言葉に頷いた。そして約束した。「そこに、行く」と。男はそれを確認すると、次の浮浪者に同じ文句を語りに移動して行った。
 何故、あの言葉に頷いたのだろう。女は自分に問い掛けた。
 「……だって、寒かったの」言い訳をするように、小さく彼女は呟いた。吐く息を掌に吹き掛けたが、自分の息さえが冷たかった。「寒かったんだもの、凄く」
 彼女は首に巻いたマフラーを握り締めて、軽く目を閉じた。眠らないように気を付けなければならない。今夜眠ったら、きっと二度と目を覚ませない。そう念じながら、瞼を淡い瞳に被せた。
 瞼の裏に、あの子の顔が浮かんだ。気が付くといつも帽子のつばに手を掛けていた、綺麗なあの子。
 結局、名前を聞かないままだった、と思いながら彼女は目を開いた。その方がいい、名前なんか聞かない方がいい。優しい結晶のように綺麗なあの子を、自分が汚してしまうのは堪らない。あの子には永遠に、あの淡く透明な金の髪のままでいて欲しい。
 だから、自分は傍にいてはいけない。そう思いながら、精一杯笑顔を作ってみた。
 作り物みたいな笑顔だ、と感じて、我ながら哀しかった。涙が零れそうで、笑顔のままで空を見上げた。曇った薄ら白い空だった。
 寒かった。ひどく、寒かった。
 ――哀しかった。惨めだった。
 「……どうした!」突然、耳に馴染んだ声が冷たい空気に響いた。はっと我に帰って周囲を見回す。違う、あの子のはずがない。そう念じながら、自分の視線は必死に彼を探していた。
 ――彼は、コンクリート壁の間からあの綺麗な顔を覗かせていた。深い色の瞳、心配そうな表情、そして、帽子に隠さないままの明るい金色の髪の毛。
 「どうしたんだ、どこか痛いのか?」困ったような表情をしたまま、彼は壁のこちら側へと入って来た。そして、温かい掌で彼女の頬を拭った。
 その柔らかい掌を冷え切った掌で押さえると、女は言った。声が掠れて、震えていた。「……どうして?」
 よく見ると、彼はパジャマの上にコートを羽織っただけの姿だった。手袋もはめていないし、ブーツの下には靴下さえ履いていないようだった。頬が紅潮しているのは、寒いせいなのかそれとも走って来た為か。
 彼は、冷え切った女の掌を握ると、自分の頬にぴたりと当てさせた。じわりと温もりが伝わってくる。「寒いだろうと思ったから」心配そうに彼女の掌を何度も握りながら、そう言った。
 更に涙が溢れてくるのを感じながら、女は少年の顔を見詰めた。こんなにも幼く、温かく――優しい。何か言おうとしたけれど、言葉が見付からなかった。
 彼は、首を僅かに傾げて目を閉じた。「やっぱり、こんなに冷たい。しもやけもいっぱい出来てる」
 そして、ぱちりと目を開いた。「俺の家に来い」
 女は、唇を震わせた。声が出なかったので、代わりに首をぎこちなく左右に振る。少年は、無邪気にきょとんとした表情を見せた。「どうして?」
 ようやく、喉から声を絞り出すことが出来た。「……わたしは、汚いの。あなたに、何もしてあげられない……」
 だから、と続けようとしたら、涙が口に入って苦かった。少年はようやく女の手を離すと、もう一度彼女の涙を優しく拭った。「お前は綺麗だ。お前が『汚い』と言わなくなるまで何度でも言うぞ、お前は綺麗だ」
 そして彼は、深い花のような紫色の瞳を細めた。「だからお前が生きてるだけで、俺は嬉しい。――それじゃ、駄目か?」
 駄目だ、と思った。
 ――わたしは、もう二度とこの子から離れられない。駄目だ、もう手遅れだ。もう逃れられない。
 ちらちらと、白いものが少年の髪に掛かるのが見えた。そして、彼女の視界はそこですっかりぼやけてしまった。彼の声がすぐ傍で聞こえたが、姿はもう見えなかった。「お前が泣くから、雪が振り出したじゃないか」
 彼女は頷いた。何度も何度も、子供のように頷いた。彼の幼い掌が、震える肩を、雪の積もる黒髪を撫でてくれるのを感じていた。彼が触れる場所から、温かいものがじわりと染み込んでくるようだった。
 見上げると、きっと空を埋め尽くすほどの雪の花。
 (わたしは、こんなにも小さなあなたに、恋をしてしまった)


  *              *               *


 雨は、いつしか雪に代わっていた。雨音は去り、代わりに深い沈黙が夜を包み込んでいた。
 女は、静かに一つ溜め息を吐いた。つられて、甫民も深く息を吐き出す。
 「どう、なされますかな」静かな声だった。
 不意に、女は微笑んだ。「それでは、先生はあの人をお願いします」
 「御子様を見捨ててもよろしいのですな」念を押すように、甫民は言った。すると彼女は軽く首を横に振る。困惑しながら甫民は尋ねた。「先程の話を聞いておられなかったのか、わたしはどちらかをと……」
 「ですから、わたしがこの子を守ります」きっぱりと彼女は答えた。その瞳は、真っ直ぐに甫民を見据えていた。「わたしの命に代えても、この子を守ります。そして――もしもわたしが死んだら、そのときは先生、この子をお願いします」
 一瞬気圧されてたじろぎ、何とか甫民は次の言葉を探した。我ながら、続けた言葉が情けない。「その、もしものときは、私めは陛下をどうしたら……」
 「大丈夫」彼女は、少し首を傾げて目一杯に華やかな笑顔を見せた。無邪気で屈託のない笑顔だった。「わたしが死んだら、あの人も死ぬから。約束したの」
 甫民は、彼女を見た。鮮やかな金色の髪を持った、美しい女性だった。だが、前に会ったときはこんなに華やかだっただろうか、と彼は考える。確かに顔立ちは美しくあったが、もっとおどおどとした内気な娘ではなかったか。
 ――そして、ようやく悟った。彼女には確たる自信があるのだ。唯一人の人間を愛して、愛されて。その揺るぎない自信が、彼女をこんなにも美しくしているのだ、と。
 甫民は、ようやくの思いで頷いた。そして、言った。「了解、致しました」
 微笑む若い母は、それから再びいとおしむように自分の腹部に手を当てた。幼い頃から手塩に掛けて育てた主が、その子供の父親なのだという実感はまだ湧いてこなかったが、我が子のように育てた主が一人の女性をこれだけ美しく出来るということが、今は何故か無性に嬉しかった。
 物音一つしない、静かな夜だった。積もった雪が、全ての音を吸い込んでしまっているのだろう。
 外は、きっと一面の銀景色。


  *              *               *


 「俺は、『素乾 竜血樹』という」暖かい部屋の中で、風呂から上がったばかりの女の髪を拭きながら少年は言った。「好きなように呼べばいい」
 風呂で身体を温めた女は、着る物がないので取り敢えず毛布に包まっていた。ほんのりと色付いた顔を、俯かせている。「わたしのことも……好きなように呼んでちょうだい。どうせ名無しだから」
 竜血樹は、少し首を傾げて考え込んだ。そしてぱっと灯かりが点ったような表情をすると、女の前側に回り込んで来た。「それじゃ、ホンファンがいい」
 「ほんふぁん?」尋ね返すと、彼は嬉しそうに頷く。「紅色の凰、紅凰。俺が『竜』だから、お前は『鳳凰』だ」
 皇帝の象徴の竜を踏まえて、皇后の象徴鳳凰にちなんだのはすぐにわかった。彼女は頬を更に紅く染めた。「何だか、畏れ多いわ」
 「嫌か?」竜血樹が心配そうな顔をしたので、彼女は微笑んで見せた。「ううん、凄くいい名前よ。ありがとう」
 はにかむように、竜血樹は笑った。そして、大きな瞳を瞬かせながら尋ねた。「ところで、ホンファンは幾つなんだ?あ、ちなみに俺は十二歳なんだけど」
 紅凰と名付けられたばかりの女は、複雑そうな表情を浮かべた。「わからないの」「わからない?」竜血樹が更に尋ねる。彼女は頷いた。「誕生日を覚えていないの。きっと、あなたよりは年上よ」
 彼女があんな風に過ごした日々の、予想以上の長さを突きつけられ、少しだけ悲しそうに、竜血樹は頷いた。「うん……それじゃ、歳も俺が決めてもいい?」
 思わず女は吹き出した。「別にいいけど、決めるってことじゃないでしょう?」
 その笑顔を見て、困惑したように少年は頭を掻く。「……それは、そうなんだけど」
 そして、彼は不意に真面目な顔をして紅凰の顔を覗き込んだ。「十六歳、ってのはどうだ、てんで見当外れか?」「そのくらいだったかもしれないわ。」自分の頬に手をやりながら、彼女は答えた。
 本当はもっと年上に見られることが多いのだが、と考えていると、竜血樹は身を乗り出しながら更に言った。「あのな、この国の男女別の平均寿命って、男が六十四歳、女が六十八歳――丁度四歳差なんだって」
 「どういうこと?」意味がわからず、彼女は首を傾げた。得意げに彼が答える。「お前の寿命が尽きる頃が、俺の寿命の尽きる頃ってこと」
 紅凰が思わず口許に手をやった瞬間、玄関の方でがらりと扉が開く音がした。只今戻りました、と言う甫民の声が聞こえて来る。ふと、竜血樹は紅凰の唇に自分の指を当てていた。静かに、という意味だろうか。
 「陛下、まだ起きておられるのですか?」足音が、段々と近寄って来る。意外と早かった、と言うような独り言をぼそりと呟いた竜血樹は、悪戯っぽく片目を閉じて見せた。紅凰は、どうしても緊張を隠せない。
 こんこん、と部屋の扉がノックされた。はあい、と竜血樹が返事をすると、古びた音を立てて扉が開く――一瞬で見交わした、二人の視線。
 扉の向こうに現れた老人の、茫然としたその表情はきっと二度と忘れられない。


  *              *               *

 
 「そう言えば、まだあの歌の四番を聴いていない」
 あるとき、道を歩いていた長い亜麻色の髪の男が、ふと思い出したように言った。「ずっとはぐらかされて聴きそびれていたな。今日こそ唄ってもらうぞ?」
 傍らを歩く女は、微笑みながら言った。「駄目、絶対に歌わない」
 「どうして?」男の問いに、彼女は笑顔を崩さない。
 「あの歌を最後まで聴いた恋人達は、近い内に必ず別れるって言われてるの」
 艶やかな彼女の笑顔に、男が困惑気味に形のよい眉をひそめた。「俺は、絶対に別れないからな。絶対に、死ぬまで一緒だからな」
 長い艶やかな黒髪に手をやりながら、女は首を傾げて見せた。いつの間にか、彼のことを見上げないと目線が合わなくなってしまった。「わかってるわ、あなたとは死ぬまで別れるはずがないもの……だから、歌わない」
 彼はすぐにその意味を飲み込んだようだった。黙り込んで、コートのポケットに突っ込んでいた掌を女の方に差し出した。それに気付いた女は、くすっと笑ってその掌に自分の指を絡ませる。
 彼女は、ふと空を見上げた。つられて男も空を見上げる。束ねた髪の毛がさらりと揺れた。「雪だな」
 「ええ」繋いだ手をぎゅっと握り締めて、女も答えた。「雪ね」
 


            葩夭 完
本編情報
作品名 真夏の夜の夢
作者名 かとりせんこ。
掲載サイト 非因果的連結
注意事項 年齢制限なし / 性別制限なし / 暴力表現あり / 連載中(佳境)
紹介 犠牲にしなければ逃げられなかった。
逃げなければ生きられなかった。
――だけど、犠牲にした人が初恋の人で。
今もあの国に生きているとしたら――?

亡国の天子を助ける為、自分の思いを遂げる為、一度は捨てた祖国へ戻り叛旗を翻した施寛美。人々の思惑は絡まり合い、東アジアの小国が世界を揺るがす楔になる――。現代東アジア史をモチーフにした、架空史スペクタクルです。
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