番外編競作 その花の名前は 参加作品

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 Dreaming番外編

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砂の花

かとりせんこ。

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  緊急捜査要請
              
 整理番号 211007187
 所属 国民繁栄党軍第7特別編成部隊 通称[シ真]人軍
 専門 爆発物テロ
 出身 中華民連邦共和国雲南省長沙西蔵族叉[イ呂]族特別自治県
 生年月日 不詳
 年齢 推定24歳
 性別 女

 整理番号 211002298
 所属 国民繁栄党軍第7特別編成部隊 通称?人軍
 専門 射撃
 出身 中華民連邦共和国雲南省長沙西蔵族叉?族特別自治県
 生年月日 不詳
 年齢 推定16歳
 性別 女

 以上2名、逃亡。
 中華民連邦共和国国家秘密警察捜査官全員に告ぐ。
 捜査網を国内全土に拡大し、即急に捕獲・処分せよ。




*                *                 *




 ニジガロは、いつも優しかった。
 月夜の下に映える白い肌と、どこまでも淡い金の髪、春の空のように柔らかく暖かい青い瞳を持っていた。そのほっそりとした少年の身体を包むのは、神様がお召しになる白い衣――ニジガロは、村の守り神だった。
 小さな奴隷娘のダワは、ニジガロが大好きだった。

 「どうしたの。」優しいニジガロの声を聞いて、蹲っていたダワはようやく顔を挙げた。ばさばさに乱れた黒髪の間から覗く頬の痣は、夜目にもくっきりと浮かんで見えた。それなのにダワは声を弾ませる。「ニジガロ、来ると思った。」
 切り立った断崖の前には、何も遮るものがない。剥き出しの明るい月が、ニジガロの白い姿を闇の中に照らし出していた。目がよくないニジガロに自分の姿が見えるだろうか、と少しダワは不安になったが、彼はそんな小さなダワに仄かな笑顔を向けてくれた。
 ダワの隣に腰を下ろしながら、ニジガロは静かに言った。「……また、お母さんに追い出されたの?」ダワはふるふると首を振る。「お母さん、お腹に赤ちゃんがいるの。ダワを見てるとお母さんは苛々するから、そしたら赤ちゃんが可哀想だから。」懸命に言葉を選びながら話すダワに、ニジガロは不憫そうな目を注ぐ。それが居た堪れなくなって、彼女は漆黒の大きな目を伏せた。
そして再び彼女は、膝の上に顎を埋めた。「……ダワはね、お姉ちゃんになるの。だからいい子にしなきゃ。」
 ニジガロは目を細めると、黙って白い細い手をダワの頭に載せた。しばらく黙っていたダワは、ふとおもむろに尋ねた。
 「ねえ、赤ちゃんがニジガロの赤ちゃんって、ホント?」
 少し沈黙を置いたあと、ゆっくりとニジガロは頷いた。「そうだよ。ダワのお母さんは託宣で選ばれたから、僕の赤ちゃんを産むんだ。」
 それは古くから綿々と伝わる儀式だった。村には常に守り神がいて、村の中から未婚既婚を問わず託宣で選ばれた女が、守り神の子供を産む。その子が男であれば、守り神の座はその子に譲られることになっていた。――そしてダワが生まれたときから、村の守り神はニジガロだった。
 ダワは嬉しそうに笑った。「それじゃ、ダワはニジガロの赤ちゃんのお姉ちゃんになるんだ。」「……ダワはいいお姉さんになれるね。」ダワの小さな頬に指先を滑らせながら、ニジガロは言った。彼の肩にダワは体重をことんと預ける。頼りないほど細いニジガロの肩でも簡単に支えられるほど、ダワはまだ小さくて軽かった。
 ダワの母は、長の妻だった。それを誇りに生きる女だった。だから神の子の母に選ばれたとき、死に物狂いで嫌がった。綺麗で優しいニジガロを、怖い怖いと言って泣いた。それがダワには理解出来なかった。子を産むと言う意味はまだダワにはわからなかったが、到底今のダワに子供を産むと言う行為は適わなかったが――願わくは、自分が選ばれたかった。
 けれど、母になれなくても、姉になれるというのなら、それは僥倖だった。ダワには兄弟がいないから、ニジガロの子にとってはたった一人の姉になれる。それは誇らしかったし、嬉しかった。面倒を見ることが出来ると考えただけで、胸が弾んだ。
 ダワはふと目を上げた。遠く眼下に村が広がり、その中央にダワの父の――長の大きな家が見えた。けれどあの村の中にニジガロの――この優しい神様の居場所はない。ニジガロは普段はたった一人で、村の外れの『神の家』に住んでいる。日の光に焼かれると身体を壊してしまう、けれど目が悪いので光がないと何も見えない、月夜にしか自由を得られない、孤独な神様。彼の腕は、彼の肩は、彼の身体は、いつもとても温かかった。
 不意にふわりと夜風が吹いた。ニジガロの長い月の色の髪が煽られて、ダワの頬をくすぐる。その先をそっと彼女は握った。
 「……女の子だったらいいね。」ふとダワは呟いた。ニジガロは、ぎょっとしたような表情を見せて、言った。「どうしてそう思うの?」
 ダワは嬉しそうに笑った。「ニジガロに似ても、お母さんに似ても、絶対可愛いから。」
 他愛のない返事にふっと表情を緩めると、ニジガロはダワの頭を撫でた。「名前を考えようか。女の子が生まれたら、僕が名前を付けることになってるから。一緒に考えておこう。」ぱっとダワは表情を明るくした。そして掌を打ち合わせて言う。「エバ。エバ・ドルマがいい。」
 ニジガロは長い金色の睫毛を瞬かせると、少しだけ首を傾けて微笑んだ。「大地の女神様の名前だね、いい名前だ。」
 照れ臭そうにはにかんで俯くと、ダワはぽつんと付け加えた。「……あのね、ダワの、ホントのお母さんの名前なの。」
 ふとニジガロの表情から笑みが消えた。そして彼は、そっとダワを抱き寄せた。ダワは黙って俯いていた。
 静かに、月の光のように本当に静かに、ニジガロは言った。「――必ず、その名前を付けようね。」
 そしてその夜も、ニジガロは優しかった。



*                *                 *




 それは、姉に連れられて、初めてこの街で買い物に出掛けたときのことだった。
 商店街の中にある花屋の片隅に置かれた、小さな素焼きの鉢に入った奇妙な物体が、エバの目に止まった。普段物事に頓着しない彼女が、珍しくじっとそれを凝視した。やがて姉のダワがそれに気付き、花屋の店先に彼女を連れて引き返す。
 店の奥からは、愛想のよさそうな中年の女が出て来た。そちらにはほとんど目もくれず、エバはじっとその物体を凝視し続ける。それは、緑色の肌の表面に短い糸のような物が飛び出している、小さな丸い有機物だった。柔らかそうな糸に指先を伸ばしてみると、ちくりと熱い衝撃が走った。
「サボテンが好きなんですか?」花柄のエプロンを掛けた店主と思しき女が、タイミングを見計らって尋ねた。ようやくエバは顔を上げる。短い砂色の髪の毛がさらりと白い面に揺れた。「さぼてん?」「そんな名前の植物なの。」ダワが、古傷の残る頬に落ちる髪を掻き揚げながら言葉少なに説明した。どこか幼い面立ちのエバは、黙ってサボテンに淡い蒼の視線を落とす。――本当に奇妙な形をしていた。丸くて小さくて、不格好だった。
 「サボテンは砂漠の植物ですからね、水をやらなくても枯れませんし、育てるのも楽ですよ。その内花も咲きますし。」そう言われて、ようやくエバは店主の女を見上げた。「花が咲くの。」「ええ。可愛い綺麗な花が咲きますよ。」
 再びサボテンに目を落とすと、エバはそれをまじまじと眺めた。この奇妙な物体の一体どこに花が付くのだろうか、気になった。
 不意に、彼女の隣にダワがしゃがみ込んだ。そして、左側しかない深い漆黒の瞳でエバをじっと凝視した後、静かに言う。「それでは、これ下さい。」「はい毎度。」店主はエバの前に腰を屈めて、小さな鉢を取り上げた。そしてそれを持って奥へ下がる。
 エバは姉の顔を見上げた。黙ってじっと見詰めると、ほんの僅かに彼女は微笑を浮かべた。「大丈夫。仕事も見付かったから、少しゆとりがあるの。」エバは黙って頷いて、店の奥に視線を動かした。間もなく店主は、さっきの鉢にリボンを結んで戻って来た。「袋に入れるとサボテンが窮屈なので、このままでいいですか?」「はい。」ダワは財布を広げながら頷いた。そして、値札通りの札を取り出してサボテンと引き換える。
 彼女の手の中のサボテンをエバが背伸びしながら眺めていると、ダワはそれを手渡した。前髪を揺らして、エバは両手でそれを受け取る。
 「可愛がってあげて下さいね。」立ち去り際に、店主の女はそう言って頭を下げた。


 二人が住むことになった部屋は、裏路地に面した小さな古いビルの屋上にあった。トタン張りの掘っ立て小屋のようなもので、家賃も安くて賃貸条件も厳しくなく、その代わりお世辞にも綺麗とは言えない代物だったのだが、ただ日当たりだけは良かった。
 その部屋に戻ったエバは、買ってもらったばかりのサボテンを日当たりのよい窓の桟に置いた。カーテンが引っ掛かると嫌だったので、窓の真ん中でためつすがめつする。ようやく満足が行ったので、エバは振り向いて台所へと走った。
 部屋に備え付けだった冷蔵庫の前では、屈み込んだダワが長い束ね髪の毛先で床を撫でながら、買って来た物を整理していた。傍に広げられた荷物は食料品だけでなく、箸や食器もある。その脇を擦り抜けて、エバはコップに水道水を注いだ。そしてそれを零さないように摺足で窓際に戻り、少しずつサボテンの鉢に注ぐ。コップの水を半分ほど入れたところで土の表面に水が溜まり始めたので、彼女は残りの水を自分で呷った。
 それから背後を振り向いて、何となくぎょっとした。ここが自分達の家だとはわかっているつもりなのだが、それでも知らないところに迷い込んでしまったような気分に襲われる。薄汚れた殺風景な室内に、先住者が残して行ったと言う僅かな家財道具がぽつぽつと残っていて、それがかえって自分達ではない誰かの生活感を匂わせていた。何だか、この部屋自体に排除されているような気分になる。
 ふと視野の端に、台所から戻って来たダワの細い姿が入った。ようやくエバは安堵を覚える。
 生まれたときから、ずっと傍にいる姉だった。物心付く前から、母の代わりにずっと面倒を見てくれていた。故郷を追われ、軍に拾われてからもずっと手の届くところにいた。それぞれ異なる戦場に送られても、待っていれば必ず帰って来た。
 この世界がとてつもなく不確かなものだと、エバは痛いほどよく知っていた。だがその中で、この血の繋がらない姉だけは、唯一で絶対の例外だった。絶対に信頼出来る、絶対に裏切らない、何よりも確実な自分の居場所だった。彼女のいるところが、自分のいるべき場所だった。
 ――だからこそ、ダワが決めたことには一切逆らわなかった。あの軍から追われることを承知で逃亡することも、亡命してこの国に逃れることも、普通の学校に通うことも。彼女が決めたことでエバの為にならないことは、今まで何一つとしてなかった。だから、それを疑問として抱くこともなかった。
 ただ、とエバは思う。何かがずっと引っ掛かっていた。本当にささやかな取るに足らないようなことなのだが、心のどこかにいつも小さな棘が刺さっているような感覚があった。今までは幼過ぎて、それを気にすることすら知らなかったのだろう。
 不意にダワが振り向く。右頬の傷と、その上の引き攣って細くなった灰色の目が痛々しかった。「どうしたの、お腹すいた?」彼女の漆黒の隻眼に、エバは首を横に振る。何故だろうか、この姉はエバの視線に気付かないことがない。どうやら今も、自分自身ですら気付いていない内に彼女の背中を凝視してしまったようだった。何となくばつが悪い気がして、エバは窓辺のサボテンの方に細い首を巡らせた。
 『サボテンは砂漠の植物ですからね。』花屋の店主の声が耳の奥に甦って来た。この小さな体で、砂漠の中にぽつんと立っていたのだろうか、とエバは思う。何もない砂漠の中で、こんな棘を纏って、このサボテンはどうするつもりだったのだろう。この棘を突き立てるべき誰かが訪れるのを、一人ぼっちで待っていたのだろうか。ようやく現れた誰かを、この棘で排除してしまうつもりだったのだろうか。
 何だかもやもやするものが残ったが、気にするのも嫌な気がして、考えないことにした。


 花屋で言っていたように、ダワは本当に仕事を見つけて来ていたらしい。引越しの当日に彼女は僅かな荷物を解き終えてしまい、その翌日にはもう勤めに出始めた。いつの間にか妹の高校の編入手続きまで行っていたのだから、凄まじい手際だと我が姉ながらエバは感心する。
 朝、二人分の弁当を包んだダワは言った。「途中まで、一緒に行こう。」断る理由もないので、エバは黙って頷いた。
 エバの高校は、ここからさほど遠くはなかった。歩いてほんの十五分ほどなので、通学に自転車や交通機関を使う必要もなかった。少し狭い路地を選びつつ、二人は並んで歩く。特に話しておくべき事柄は見当たらなかったので、エバは口を開かなかった。
 ふと彼女は自分の服装に目を落とした。学校の規定では、白と紺を合わせた服装であれば基本的に自由なのだという。余り目立つ格好は彼女達には望ましくなかったので、エバは白いハイネックと紺の膝丈のスカートを着ることにした。まだ普通のスカートは着心地が悪かったが、敢えて言うほどのことではないと彼女は思う。軍隊から逃亡したのだから、もう軍服に袖を通す必要はないのだと自分に言い聞かせる。それに、ダワの黒いワンピース姿の方がよっぽどか違和感を覚えさせたが、そんなことを言って彼女を更に煩わせるのも鬱陶しく、エバはひたすら黙っていた。
 ふと、ダワが思い出したように言った。「エバ、あなたの名前はここでは、『パク・ジャンヤン』なんだって。」そして自分の鞄から数枚の書類を引き出す。見ると、その氏名の欄には確かに『朴 江葉』の文字が漢字とハングルで書かれていた。変な名前、と思ったが、エバは口には出さなかった。その横顔を見ながら、ダワは続けて言う。「わたしは、『サンウォル』。」そして書類の保護者氏名欄を示した。『朴 繊月』と言う文字が綴られているのが見えた。
 不意にエバは思い出した。「ダワ、字が書けるの?」ダワは首を横に振った。そして灰色の右目を細めると、少し抑えた声で言う。「人に頼んだの。大丈夫。」
 何が大丈夫なんだろう、とは思ったが、見ると既に校門の前に立っていたので、尋ねるのはやめることにした。そのまま門に入ろうとすると、ダワが後から呼び止める。「大丈夫? 一人で行ける?」エバは頷く。
 それでも心配そうに、ダワは続けた。「始めに、先生を見つけて職員室に連れて行ってもらいなさい。職員室って、教官室と同じようなものだからね。それから、ちゃんと自己紹介は出来る? 他の人も沢山いるから、大人しくしなさいね。怪しまれることをしては駄目。」エバは無言のままで何度も何度も頷いた。そして踵を返そうとしたのだが、ダワがしっかりと腕を掴んでいるのに気が付いた。
 怪訝な顔で姉を見上げると、彼女は押し殺した声で言った。「一人で帰って、留守番も出来るね。わたしは帰りが遅くなるけど、誰も家に上げては駄目よ。」その目が余りに深く暗かったので、エバは思わず気圧されたように頷いた。ようやくほっとしたように、ダワは腕を放した。そして言う。「いってらっしゃい。頑張ってね。」
 姉の視線を背中に感じつつ、エバは一度も振り返らずに校門をくぐって行った。


 高校の編入一日目は、特にこれと言ったこともなく過ぎた。敢えて何か上げるとしたら、エバの組み込まれたクラスには彼女と同じ銀色の中華製目印と思しき物を髪の毛にちらつかせた女子生徒や、見事な白皙の美貌を晒したどこから見てもコーカソイドにしか見えない男子生徒がいたと言うことくらいだろうか。そもそも人と仲良くしようと言う認識が端から欠落しているエバは、クラスメイトや教員に対してほとんど興味を抱かなかった。初めて見る文物に対し不自然なほど無関心で、億劫そうに視線を向けようともしなかった。
 そのことで周囲の警戒心を煽っていたことに彼女は気付かなかったが、例え気付いていたところで別に頓着する性質でもない。そんな彼女は、最前列に据えられた教諭の正面の席で、全く傍若無人な所作で大欠伸をしていた。担任教諭の困ったような顔にも、何ら感慨を得なかった。
 ただ、授業はそれなりに面白かった。これまで銃火器の扱い方と暗号地図の読み方、それから戦略と簡単な外傷の応急処置法のようなものしか習ったことのない彼女にとって、文学や歴史、ないし数学や化学等のような、実践にどのように結び付けるのか今一つ明確でない授業は不可解ではあったものの、興味をそそられるに充分なものではあった。最大の問題点は、まだエバは一度もハングルを習ったことがない点であったが、午前中の授業で多少苦戦したもののその間に表記法と文法を会得したので、昼過ぎにはさほど不便を感じない状態になっていた。
 気に入らなければすぐに飽きてしまうところのあるエバだったが、高校はさほど嫌がらずに毎朝通うようになった。日々授業によって新しい知識を供給してくれる点もエバとしては悪くなかったが、何より昼食の為に毎朝持って行く弁当に、ダワが欠かさず好物のエビフライを入れてくれるというところが気に入った。つまり砂色の髪の少女にとって、学校とはそのような場所であった。


 ここのところ、ずっとサボテンの元気がない。初めは気のせいかと思っていたのだが、三日も経たないうちに緑の肌がくすんだ黄色に変色し始めて、次第に干乾びたような皺が寄るようになった。
 ダワに相談しようかとも思ったのだが、ほとんど毎晩エバが寝てから帰宅し、ほとんど毎朝エバが起きる前に食事の用意と弁当だけを残して出勤している彼女を煩わせるのはさすがに気が引けた。第一、ここに来てから彼女と顔を合わせた回数なんて数えるほどしかない。同じ屋根の下に暮らしているのに、別々の戦場に送られて何ヶ月も顔を合わせられなかった頃よりも離れてしまっている気がした。
 何だか腑に落ちなかった。学校の授業はそれなりに面白いし、ダワの作る弁当は美味しいし、余り気の進まないことを強要されることもないし、嫌な教官に声を荒げられることもない。嫌なことは何一つなかった。不満なことは何一つなかった。それなのに、何だか変な気がした。胸の奥の方がもやもやとして、すっきりと透明な気分になれなかった。何か嫌なことがあった頃の方が、それ一つに没頭出来て楽だったようにすら思う。
 (サボテンのせいだ。)ふと唐突にエバは思った。(このサボテンの元気がないから、きっとそれが伝染ったのだ。)
 嫌な物は排除したい。その日エバは学校をさぼって代わりに花屋へ向かった。それは多分本能だった。


 「あら、この間のお嬢さん。」花屋の前を掃いていた女主人は、顔を上げて微笑んだ。「どうしたの、学校は?」
 問いには答えず、エバは手の中の鉢を差し出した。その鉢に詰まった飾り砂の上に載る緑色の植物は、ぐんにゃりと力が抜けたように萎れていた。少し驚いたような表情の後、店主の女は困ったような表情を見せた。それが何だかエバには不快だった。
 店主は箒をタイル張りの壁に立て掛けて、小さなエバの手から鉢を受け取った。「……根腐れかしら。ちょっと待っててね。」店の奥へ入る彼女の大きな背中に、エバは黙って付いて行く。店内の奥にある作業台の上に古新聞を広げると、女主人はその上でサボテンの飾り砂を抜き、次に鉢から根を外した。「あら、やっぱり。土が腐りかけてたのね。」
 作業台の脇からサボテンと店主の顔を交互に見比べていたエバに、中年の店主は優しく言う。「お水を沢山あげてたのね。でもサボテンは乾いたところの植物だから、水を余りあげ過ぎると枯れてしまうの。今度から気を付けてあげてね。」そしてピンク色のゴム手袋をはめた手で、サボテンの絡まった根を綺麗に解し始めた。
 淡い碧眼を瞬かせて、不意にエバは言った。「……砂漠の植物でしょ。」「そうよ。だから余り水はいらないの。」小さなスコップのような道具をレースで縁取ったエプロンのポケットから取り出しながら、女主人は言う。反論するようにエバは続けた。「今まで水が、なかったんじゃないの?」淡々とした口調ではあったが、少し声は小さくなった。
 ふと花屋の店主は手を止めて、エバの目の高さに顔を合わせた。「そう。だからサボテンは、自分の中に水を溜め込む方法を知ってるの。砂漠の動物が飲み水代わりにするくらい沢山の水を、身体の中に蓄えておけるのよ。だから、あんまり水をあげ過ぎるとかえって腐ってしまうのね。」諭すように言う店主の前で、少しだけエバは顔をしかめた。そんな彼女の肩に手を置き、女店主は優しく言う。「お嬢さんは優しいのね。不憫に思って沢山お水をあげてくれてたんだ。」
 「……何で、ほとんど与えられない水を、貯めておけるの?」そこだけ銀色に色を抜かれた左サイドの髪の房に手をやって、憮然とエバは言った。困ったように首を傾げた後、花屋の主人は答えた。「きっと、生きて行く為にどうしても必要だからでしょう。」「どうして必要だとわかるの、与えられないのに。」喰い付くようにエバは更に詰め寄った。
 納得出来なかった。どうして知らないものを、どうして自分が与えられなかったものを、必要だと知ることが出来るのか。どうしてそれを自分の中に蓄えられるのか、どうして他の誰かに与えられるのか。全然理解出来なかった。
 ふとダワの姿が脳裏を掠めた。奴隷の母を持ち、父からも継母からも疎まれていた、年の離れた姉。常に村の、国の、軍の道具としてしか扱われなかった、強い女。まともに人間として見なされることすらろくになかったであろう、綺麗な哀しい人間。誰よりも餓えているはずの愛情をその身に一杯に湛えて、惜しみなくエバ自身に注いでくれていた。
 けれど彼女はどこでそんなものを与えられたのだろう。どこでそれが必要だと知ったのだろう。蜜の味を知らなければそれに惹かれることもないはずなのに、甘く優しい麻薬のような味を人に与える術を一体どうやって覚えたのだろう。全然理解出来なかった。
 「……水もやれないなら、どうしたらいいの。」少し伏目がちにエバはぽつりと呟いた。その肩に手を載せていた店主は、少し間を置いてひどくやさしい声で言った。「きっとサボテンは、生まれる前から水を蓄える方法を知っていたんでしょう。でないと、水を必要としなくなったらサボテンは生き物でなくなってしまうでしょ?」
 エバは顔を上げる。その目をじっと見ながら、女主人は言った。「だからお嬢さんは、お水の代わりに言葉をあげてくれる? サボテンはね、言葉がわかるのよ。毎日何か話し掛けてあげたらきっと、喜んで元気になるわ。」そして彼女は立ち上がり、作業台の脇の大きな袋から白っぽいさらさらとした砂のような土を取り出した。それに幾つかの土を混ぜて、鉢の底に少し入れる。それから根を少し切って整えたサボテンを入れて、もう一度砂を入れ直した。とんとんと鉢を台で叩いて土を軽く均す。
 エバは店主の顔を見上げた。女主人は彼女に笑顔を見せる。「はい、これで大丈夫。しばらく様子を見て、また元気がなくなるようだったら連れて来てあげてね。」そして鉢をエバの手に渡した。彼女はまじまじとサボテンを見詰めた後、小さく頷いた。
 少しだけ安心した。ほんの少しだけ、ほっとした。


 商店街を抜けて、家路を急いでいるときに、それは起こった。ずっと後を付けられていて、その相手が素人でないのはわかっていたが、人気のない裏通りに曲がった次の瞬間にこんな風に囲まれるとはエバも思っていなかった。僅かな不快感を顔に上らせる。
 それは数人の男だった。揃いも揃ってきっちりとスーツを着込んでいるのが如何わしさを倍増させている。懐に拳銃を――内二人は袖の内側にナイフを仕込んでいることもわかった。身のこなしと足さばきから察するに中華当局東北部の軍人崩れだろう。大方亡命の斡旋屋と銘打って、国から逃げた貧乏人から金を巻き上げている連中だと目星を付ける。
 エバがそんな風に相手を観察していると、ようやく業を煮やしたのか男の一人が口を開いた。やはりと言うか何と言うか、東北訛の中国語だった。「お嬢ちゃん、こんな時間にうろうろして。お姉ちゃんがせっかく入れてくれた学校はどうしたのかな。」答える必要がないと判断して、エバは口を利かなかった。普段ならこの程度の連中はあっさりと蹴散らしてしまえるのだが、今は手の中に抱えたサボテンを落としたくなくて下手に動けない。
 じっと男達を凝視して隙を捜すエバをどう解釈したのか、彼等は妙な笑顔を浮かべる。向こうもエバの実力には気付いているだろうに、数の優位に胡坐をかいたのか耳打ちなどしている奴もいる。それが更に不愉快だった。
 「お姉ちゃんはねえ、わざわざキミの為に大借金して国を捨てたんだよ。」わざと顔を近付けながら、一人が揶揄するように言う。ようやくエバは、重そうに口を開いた。「……わたしはそんなこと、頼んでない。」
 馬鹿な姉だ、とエバは内心でぼやく。亡命の斡旋を頼むにしても、もう少しまともな相手に頼めばよいものを。彼女は人を見る目がない。本当に、哀れなほどに人の運に恵まれていないのだ。本人が一番よくわかっているはずなのに、と半ばうんざりとエバは考えた。
 目配せしながらスーツ姿の男は言った。いかにもな地方役所の役人の姿に扮していて、それがはまっているのがおかしかった。「そんなこと言うとお姉ちゃんが泣くよ。今だってキミに苦労を掛けまいと一人で働いてるんだからね……まあ、あんなんじゃ一生掛かっても返し切れるかわからないけど。」
回りくどいのはエバの最も嫌いなことの一つだった。その表情にあからさまな嫌悪を浮かべると、ようやく彼等は本題に入る。「……あのお姉ちゃんは確かに綺麗だけど、疵物だからな。その点キミは問題ない、きっと一晩でお姉ちゃんの一月分は稼げる。どうだい、助けてあげようとは思わないかい?」内容も、妙に楽しげな口調も忌々しかった。それでも何より忌々しかったのは、姉を『疵物』なんて呼ばわったことだった。
 サボテンの鉢を胸に抱え込んで、明快にエバは答えた。「否。」
 「そっかあ。」不意に周囲の空気がさっと色を変えた。いつの間にか背後に回り込んでいた男が、彼女の肩口に囁くように言う。「んなこと言われてもさ、こっちも仕事なんでね。」
次の瞬間、エバは素早く身をかわす。男の手刀が宙を切った。気絶させて拉致するつもりなのだろう。そうはさせるかとエバは相手に蹴りを入れる。そして彼が怯んだ隙に突破しようと地面を蹴った。
 しかしその先を別の男に遮られた。勢い余ってつんのめり、背を反らせた後エバは態勢を整える。勢いよく伸ばされた腕を無駄のない動きで避けながら、彼女は瞬時に自分の周囲を見渡した。だが、どうにも隙がない。腰を落として身構えるエバに、じりじりと彼等は近寄って来る。
 エバはぎゅっとサボテンを抱きかかえると、とんっと地面を踏み切った。そして垂直跳びの要領で一人の顎に膝を入れる。その隙間を縫って抜け出そうとした瞬間、ずきんと足首に鋭い痛みが閃いた。それでも強引にその足を振り上げて別の男を蹴り上げる。その瞬間に少なくない鮮血が足首から散った。さすがに彼女も痛みに顔をしかめる。
 「顔と身体は止めとけよ。」嘲笑うように一人の男が、ナイフを構えた男に言った。ナイフの男も、口の端を切っているくせに妙に愉快そうな顔をしている。「わかってるって。あの姉貴みたいな勿体無い真似はさせねぇよ。」
 不意に、少し離れたところで叫び声が上がった。エバは一瞬だけ視野の端でその人物を捉える。運悪く通り掛ったのだろう、労働者 風の男が路地の端からこちらを見ていた。だが彼はエバの――そして彼女を囲む男達の視線に気付いた瞬間に踵を返す。
 それとほぼ同時に、エバの頬を掠めて空気が震えた。瞬きをする間もなく、後頭部から血を吹き上げて男が倒れるのが見える。振り向くと、男の一人が拳銃を構えた姿勢のまま、歪んだ笑みを浮かべていた。周到なことに、小銃のくせにサイレンサーなんか付けている。これ見よがしにそれを翳しながら、男は言った。「助けが来るなんて、思っちゃいけないよ、お嬢ちゃん。」
 だったらとことん抵抗するまで、と再びエバは腰を落として構える。そして続け様に回し蹴りを入れ、その合間に肘で突いた。だが、思いの外に向こうもしぶとかった。上手く攻撃の決まった相手はさすがにひるむが、交わし切った別の男がエバの行く手を阻む。いい加減にうんざりしながら、彼女は苦戦を強いられていた。多分この手の中のサボテンを諦めれば逃げ切れるのだろうが、それは余りにも癪だった。
 と、突然彼女の目の前に火花が散った。危うく遠退き掛ける意識を引き戻しつつ、彼女は状況を分析する。ようやく遅れ馳せにやって来た痛みから、どうやら項を強か固い物で打ち据えられたのだと理解した。ここで男の手を交わさなければ逃げ切る機会を逃すと言うことはわかっていたが、身体の方が言うことを聞かなかった。倒れるのだけは辛うじて踏み止まったが、その姿勢のまま眩暈がして動けなくなる。
 目の前に男の腕が迫るのがスローモーションになって見えた。悔しい、とエバが考えたそのときだった。
 その腕が、巻き戻されるようにエバから離れた。そして彼女の視野から消えた次の瞬間に、エバの足元に振動が伝わった。視線をずらすと、そこに引き倒された男の姿が見えた。
 エバはようやく顔を上げた。そして、そこに姉のダワの姿を見る。仕事はどうしたんだろう、とふと他人事のようにエバは考えた。
男達はまだ交戦の姿勢を取っていたが、相手がダワだと確めると急に態度を軟化させた。「何だ、お前か。」
 「……エバには手を出さない約束だったはずよ。」エバを自分の背後に庇いながら、ダワは固い口調で言った。抑えてはいるものの、その下から激情が滲み出ている。そんな彼女を嘲笑うように、最初にエバに声を掛けた男が口を開いた。「約束を先に破ったのはどっちかな。支払いの期限をちゃんと覚えているのかい?」だが彼は、既に戦う姿勢を取ってはいなかった。多分、ダワには敵わないことをわかっているのだろう。
 少し躊躇った後、ダワはそれでも果敢に言った。「だから金は払ってるでしょう。少し遅れただけじゃない。」
 しばらく彼等は睨み合ったが、先に口を開いたのはやはり男の方だった。「……まあいい。利子まできちんと支払えるなら、文句は言わない。」そして、服を整えて引き揚げの準備を始めながら言う。「ただし、次の期限までに支払えなかったら、そのときはもう待たないからな。妹だろうが何だろうが、金銭価値のあるものはこちら側に引き渡してもらう。」
 ダワは唇を噛みながら、エバを更に後ろにやった。その姿を見てくすくすと笑いながら、男達はどこかへと立ち去って行った。


 彼等がいなくなるのを確めると、ダワはすぐにエバの足元に膝を突いた。そして彼女の身体を確める。「大丈夫? 怪我は……。」そして足首の怪我に気付き、血相を変える。すぐにハンカチを取り出し、それを巻いて止血した。「痛いでしょう。ちゃんと動く?」
 億劫そうにエバは言った。「大丈夫。」そして、怪我のことなど忘れたように、気になっていたことを訊ねた。「……仕事は?」「学校から、今日はまだ登校していないと連絡をもらったの――ごめんね、もっと早く来ていたらよかった。」ほとんど泣き出しそうな様子でダワは言った。そして応急処置を済ませると、立ち上がってエバの肩を抱く。「他には怪我はない? 変なことはされなかった?」
 謂れのない攻撃も変なことの内か、とエバは考えたが、多分ダワの意味するところとは違うだろうと思って、彼女は首を振った。そしてサボテンを抱え直す。「大丈夫。これも。」それに目をやると、ダワはようやく微かに苦笑するような表情を見せた。
 一人で歩いて帰れる、とエバは主張したが(少なくとも、彼女にしては粘ったつもりだった)、ダワは断固として自分がエバを抱えて帰ることを譲らなかった。結局エバは、大仰に姉に抱き上げられて家まで連れて帰られ、更に足の怪我に包帯をぐるぐるに巻かれる羽目になった。ダワはそれでも心配そうにしていたが、何とかエバは彼女を仕事に追い出した。いつまでも仕事を抜けていたら、ダワのような不法就労者が真っ先にクビにされるのは目に見えている。そうでなくとも、最低で仕事を抜けていた時間分残業があるのだと言うことくらいはエバにもわかっていた。
 ようやくダワが再び出掛けるのを確めると、僅かにエバは溜息を吐いた。そしてテーブルの上に置いたサボテンに目をやる。
ふと、路上に横たわったままの男の死体がどうなったのか無性に気になった。けれどそれを思い出すと、余計に外出する気にはなれなかった。少なくとも当分は一人で出歩くのは止めよう、と彼の死体を思い浮かべながら彼女は思った。
 自分の手で人を殺すのは余り抵抗がなかったが、巻き添えで人が死ぬのはいい気分がするものではないのだ、と彼女は知った。


 出掛ける前にダワが学校にエバの欠席を知らせる電話を入れていたので、彼女は何の問題もなくこの部屋に取り残されることになった。ぽつんと椅子に腰掛けたエバは、することもないのでサボテンの鉢を眺めることにした。すぐにすぐサボテンが元気を取り戻すはずはないとは思ったが、それでも幾らか状況が改善されたようなので彼女は少しだけ安堵する。
 ふと、エバは花屋の女主人の言葉を思い出した。『――毎日何か話し掛けてあげたらきっと、喜んで元気になるわ。』理屈はよくわからなかったが、それでも専門家の言には従う方が賢明だと考えて、エバは何か言葉を探した。無意味な単語をランダムに言ってみたものか、とエバは少し思ったが、やはりある程度の意味を持つ言葉の方が相応しい気がして彼女は文章を練った。
 「お前は、ここにいたい?」
 サボテンが答えられるはずがないのだから、疑問文は適当でないかもしれないとエバ自身思ったのだが、口を突いて出た言葉は問い掛けであった。少し自分の行動が意外ではあったが、そのままエバは続けた。「お前の居場所は、ここでいいの?」
 サボテンは無論何も答えなかった。エバの吐息に揺れる葉も持たないサボテンは、ただ無表情にそこに佇むだけだったが、それでも彼女は問い掛けた。
 ふと、彼女の左頬に掛かる銀色のメッシュがさらりと揺れた。「――わたしは、ここにいてもいい?」
 ずっと――ずっとダワは、彼女の傍にいた。いや、エバの方がずっとダワにくっ付いていた。悲しいくらいに優しいダワは、だからずっとそんな妹を庇って生きて来た。傷一つ付けないように、悲しみ一つ負わないように、ずっと自分が盾になり続けて来た。その為に自分がどんな傷を負うことも厭わなかった。
 故郷が滅ぼされたとき、エバだけでも生かそうとして、ダワは白い頬に傷を負った。
 軍に拾われたとき、幼いエバを欲情の対象として見なす大人から守って、ダワは肌を汚された。
 軍隊でエバを比較的安全な射撃部隊に入れる為に、ダワは最も危険なテロ部隊に志願し、片目の光を失った。
 エバは、そんなダワを心底信頼していた。好きだった。エバにとって数少ない、排除したくない存在だった――排除される危険を極力減らしたい、傷付けたくない存在だった。それはつまり、常に彼女を間接的に傷付けている自分の存在を排除したいという意味になった。
 そんなことを願うのは、とエバは思う。「生物として、正しくない?」
 排除したくないと願う、好きだと感じる感情から、自らの破滅を厭わないのは間違っているのだろうか。
 排除したくないと願う、好きだと感じる感情から、自らを破滅させて行くのは間違っているのだろうか。
 何となく、自分が深い深い淵の中に沈んで行く気がした。ただぽつんとそこに佇んでいられるサボテンが、羨ましかった。
ふとエバは、部屋の時計が正午を示すのを見て、ようやく自分が空腹になっているのだと言うことに気付いた。ダワが朝作っておいてくれた弁当がテーブルの上に置きっ放しになっているのを見て、のそのそと手を伸ばす。包んでいた布を解いて蓋をぱかっと開けると、海苔巻と小さく分けられた料理の間に、いつものように明るい狐色に揚がったエビフライが二本入っていた。少しだけ気分が浮かび上がるのをエバは感じた。
 箸を細い袋から取り出して一本目のエビフライを頬張りながら、エバはサボテンに目を向けた。まだ黄色く萎んでみすぼらしかったが、今にも融けてしまいそうな状態ではなくなっているように見えて、エバはほっとした。美味しくエビフライを味わってから、エバは箸で野菜を摘みながら言う。「……お前は、大丈夫。元気になれる。」


 その夜、ダワの帰宅はいつもに比べると少し早かった。寝ようと蒲団に潜り込んでいたエバは、物音に気付いて起き出した。
 ダワは台所の水道を捻ってコップに水を溜めると、それを一気にあおっていた。そして口許を腕で拭うと、ひどく思い詰めたような顔でどこか遠くを見据えていた。声を掛けたものか、とエバが迷っていると、先にダワの方が彼女に気付いた。「エバ、怪我の具合は大丈夫?」
 もう痛みすらすっかり忘れていたエバは、姉を安堵させる為にこくんと頷いた。きっちりと纏めていた黒髪を乱したダワは、傷が引き攣る頬で僅かに微笑む。「明日からは学校に行ける?」エバは再び頷いた。
 ダワはシンクから離れると、戸口のところに立っていたエバの頭に掌を載せた。そのさらさらとした髪の感触を確めるように撫でると、彼女は少し抑えた声で言う。「……明日から、少し留守にすると思うの。いい?」
 この問いには、エバは頷かなかった。代わりに淡い碧眼でダワの顔をじっと見詰める。少し疲れた顔をしたダワは、白い面で再び微笑んだ。「大丈夫、心配しないで。」ようやくエバは頷いた。この姉は、決して嘘は吐かない。それを知っているから頷いた。
 ふとダワは、テーブルの上のサボテンに気付いて言った。「少し元気になったみたい、よかったね。」
 エバは大きく頷いた。
 ――そして翌朝出掛けて行ったダワは、予告通りその日帰って来なかった。
 二、三日のことと踏んでいたエバは、五日目の夜に、このとき頷いたことを深く後悔することになる。


 ダワは帰ってこないばかりか、何一つ連絡を寄越さなかった。一応ダワと約束しているので学校には通うものの、弁当のない生活にエバはいい加減辟易していた。そもそもほとんど家事全般を姉に任せっ放しだったエバは、辛うじて飢えない程度の栄養だけは補充するが、それ以外の家事が一切出来なかった。余り物を使わないとは言え、さすがに部屋も荒れてくるし洗濯物も貯まる。今更になってエバは、ダワが家にいるあの僅かな時間にあれだけの家事をこなしていたことに驚きを覚えた。
 何の連絡もないことに全く心配をしなかった訳ではないが、ダワの「大丈夫」と言う言葉を信じてエバは待っていた。何度かあのときの男達の姿も脳裏を過ぎらなかった訳ではないが、あのダワが負けるはずがないと信じていた。第一ダワは、例えどんな局面に置かれても必ずエバの元に帰って来た。今回も必ずそうだとエバは信じて待ち続けた。
 そして、そうしている内に五日目の夜を迎えた。さすがに着る服がなくなって来たのを困ったことだと判断して、エバが洗濯機の取扱説明書を探していると、玄関の方で物音がした。顔を上げてエバは玄関に向かう。今日くらいはおかえりなさいと言う言葉を掛けようと彼女は考える。
 ダワは、出て行ったときと同じ黒の上下を身に着けていた。エバが声を掛けようとした瞬間、ダワは僅かに顔をもたげたが、表情を浮かべる間もなく壁に背中を預けて崩れ落ちた。長い黒髪が壁に剥き出しの細い鉄筋に引っ掛かり、奇妙な形を描いた後ぱらぱらと落ちる。
 慌ててエバは彼女に駆け寄る。姉の肩に手を掛けると、ぐったりとしたまま彼女はこちら側に倒れ込んで来た。身体はひどく熱く、全身を震わせて浅い息を吐く。腕で支えながら仰向かせると、その目はきつく閉じられていた。薄い瞼越しに透ける瞳の黒さが、眼窩に影を落としているように見える。
 「ダワ。」声を掛けたが、返事はない。身体を揺すると、痛みがあるのか苦しそうに顔をしかめるだけだった。このまま玄関に放置する訳にも行かず、半ば引き摺るようにしてエバは姉の身体を室内に運んだ。我慢強い彼女が時折挙げる呻き声に、只ならぬ事態を感じていた。
 自分の為に用意していた寝台の蒲団にダワをうつ伏せに横たえると、取り敢えずまだ彼女が呼吸をしていることを確めて、エバは安堵の息を吐いた。額に手を置くと、やはり信じられないほど熱い。呼吸も細く荒く、全身に力が入っていなかった。
 仰向かせようと彼女の身体に手をやって力を込めると、意識のないままダワは苦しそうに喘いだ。慌てて手を離すが、彼女は壊れそうな細い呼吸しかしない。ふとエバは、服の上からダワの身体を軽く触る。肩口から背中に触れ、そして腰の辺りにまで手をやったときに、ダワは再び喘いだ。同時にエバは自分の手に何か奇妙な感触を覚える。おずおずと服を捲り、エバは顔をしかめた。
 彼女の細い胴回りに包帯が巻かれていて、丁度左の脇腹の辺りにガーゼが当てられているのだろう、盛り上がって薄く血を滲ませていた。どんな種類の傷かはわからないが、尋常なものでないのは確かである。エバはそろそろと服を引き戻した。
 応急手当の方法は多少学んだものの、これがエバの手におえる傷でないのは一目で明らかだった。途方に暮れるエバは、不意に姉の呻き声が単語を囁いていることに気付いた。ダワの顔周りの髪を払って、エバは顔に耳を近付ける。ほんの僅かにダワが薄目を開いているのに途中で気付いたが、掠れる声を聞き取るのに精一杯だった。
 荒い息の下で、ダワは言う。「……だい……じょ……ぶ、よ……。」「何が。」僅かに苛立ちながらエバは答える。少しも大丈夫な傷ではない。妹を宥めるように、ダワはようやく言葉を呟いた。「……エ、バ……あな……た……だいじょ……ぶ……もう、しんぱ……いらな……。」この先はもう、何も聞き取れなかった。ダワは身体中を震わせて呼吸するのがやっとの様子だった。
 エバは蒼い目を見開く。そして、ようやく自分が姉の言葉を誤解していたことに気付いた。
 ダワはあのとき、自分が大丈夫だと言ったのではない。彼女は、エバの身が大丈夫だと言ったのだ。何をするつもりだったのか、何をして来たのか、まるで見当が付かないが、彼女は自分の身体と引き換えにエバの安全を買って来たのだ。そんなことに気付かなかった自分の唇を、エバはきつく噛む。
 初めからわかっていたことなのに。ダワは、エバの為ならどんなことでも――本当にどんなことでも出来ると言うことが。
 これまでだって、ダワは自分のあらゆるものを犠牲にしてエバを守って来た。その彼女が、今になって自分の命を大切にすると言う概念を持つはずがない。エバが永劫の安寧を保障されるというのなら、喜んで胸に刃を突き立てる女なのだ。そんな彼女の本質を、肝心なところで見誤っていた自分にエバは嫌悪を覚えた。
 ダワの横たわった細い身体を見下ろしながら、エバは取り敢えず考える。ダワの傷は深い。エバにはどうしようもないし、このまま放って置けば必ず彼女は死ぬ。どうすればよいのか、と彼女は方法を模索する。
 軍隊にいた頃なら、取り敢えず軍病院に連れて行けばよかった。よっぽどの傷でない限りは大抵助かった。けれど、とエバは口許に指を当てる。あそこから逃れてきた以上、戻ることは出来ない。そして、軍病院に相当するものがここに存在するのか、もしも存在するならばどのようなものなのか、彼女は知らなかった。
 どうしよう、とエバは考える。ダワが死ぬのは嫌だった。彼女がいなくなるのは許せなかった。けれどそれを引き留めるにはどうしたらよいのか。見当が付かなかった。
 ふと、エバは口許から手を下ろした。そして立ち上がり、ダワに刺激を与えないようにそろそろと奥の部屋へ行く。目当ての物はすぐに見付かった。
 再び恐る恐る戻って来たエバは、ダワがまだ息をしているのを確めて、静かに玄関に向かった。一番動き易い真新しいスニーカーに足を突っ込みながら、彼女はもう一度だけ部屋の中を振り返った。うつ伏せのまま黒髪を打ち広げたダワの姿を目に焼き付けると、エバは静かに室外に出て静かに扉を閉じる。
 そして爪先をとんとんと地面で叩くと、一気に彼女は駆け出した。


 塔は、染みだらけの白衣をばさりと脱いだ。そしてそれに真新しい血痕が着いていたことに気付いて顔をしかめる。「さすがにそろそろ洗濯時だろ。」
 「まだ大丈夫ですよ。」看護婦を務める妻が、無責任なことを言いながら待合室の電気を消した。「替えの白衣、この前破かれたんでしょう。ないよりはまだましですよ。」塔は反論も出来ず、白髪の頭をぐしゃぐしゃと掻き混ぜた。
 こんな陋巷界隈でモグリの医者などやっていると、やって来る患者も性質が悪い。さっきまでは酔った勢いで喧嘩して額を割った労働者が担ぎ込まれて来ていたのだが、流血の量に比べると本人達は至って元気なもので、診察室で喧嘩の第二ラウンドを繰り広げてくれた。若い頃は相当な腕自慢だった自負のある塔だが、さすがにこの年になって参戦するのは無謀だったと今更になって思う。片方のレンズが外れた眼鏡を掛けながらぎしぎしと軋む腕を回し、自分も診察室の破壊活動を食い止める側に回って置けばよかったと少し後悔した。それでも、最後の一枚の白衣を破かれなかったのは幸いだったと思うことにする。
 彼の妻の声が、少し離れたところから聞こえた。「それじゃ、わたしはお先にお風呂頂きますね。明日も早いでしょうから、あなたも適当な時分にお休み下さいね。」「はいはい。」やっぱり白衣を洗濯しようか、等と考えながら、上の空で塔は返事をした。
 今から洗濯機を回すのは非常識か、と外に目を向けた塔は顔をしかめた。暗い夜の道を、覚束ない足取りの男が誰か小柄な人物に付き添われ、こちらにやって来るのが見えたのだ。それが、さっき送り出したばかりの頭に包帯を巻いた男だったので、やれやれと塔は白衣を羽織った。大方転んだ拍子に別のところが痛くなったか何だかで戻って来たのだろう。妻を呼び戻すまでもないか、と考えながら塔は、診療時間を書いた看板をもっと大きなものに取り替える決意を固める。
 消毒瓶を台の上に並べながら窓の外に目をやり、彼は怪訝そうな顔をした。どうも様子がおかしい。こちらへ向かってやって来る男が、両手を上に掲げているように見えたのだ。その真後ろに付けている人物が、見覚えのない少女と言うのも引っ掛かった。そしてふと街灯に照らされた二人の影に、拳銃のような形を見分けて彼はぎくりとする。
 慌てて扉を押し開く塔に、男は情けない声を出した。「せ、せんせぇ……。」「何事だ。」汚い白衣を着た老医師は、小柄なコーカソイドの少女が確かに拳銃を構えているのを見分けて口調を固くした。今にも泣き出しそうな調子で、頭に包帯を巻いた男は言う。「……何か、け、怪我手当てしてくれる場所に連れてけって、こいつが……。」
 ふと塔の視線が少女のそれとぶつかった。ぞっとするほど蒼い瞳をした少女は、男に拳銃を突き付けたまま塔の前に立つと、ひどく無感動な調子で言った。「……あなた、医者?」「に見えなければわたしの不明だな。」少女に負けず落ち着いた調子で塔は答える。これでも年の分だけ場数は踏んでいる。うろたえるほどのことではなかった。
 その少女は一頻り塔の姿を眺めると、淡々と言った。「看て欲しい人がいるの。」「その前に、そいつを放してやりなさい。」気の毒になるほど震えている男に目をやりながら、塔は言った。しかし少女は応じない。「看てくれるの?」
 彼女に殺意がないのを見極めると、塔はやれやれと肩を落とした。「患者がいるなら、診察するのはわたしの仕事だよ。いいから放してやりなさい。そんなことをされていたら、わたしも集中して診察が出来ない。」しばらく少女は黙っていたが、不意に男をぱっと手放した。転がるようにまろびつつ男は夜の道を逃げて行く。
 今度は、少女は塔に銃口を向けた。「急いで。」彼女の色の薄い髪に一筋銀色のメッシュが入っているのを見た塔は、僅かに表情を歪めた後に言う。「診察室に戻ってもいいかい、往診の準備をしよう。」「急いで。」追い立てるように少女は言う。
 厄介な相手に引っ掛かったものだ、と思いながら、塔は手早く準備を整えた。妻に知らせておこうか、と思ったが、まあ後で帰ってから報告すればいいと彼は高を括る。別にさほど珍しいことでもなかった。
 ただ、と塔は考える。少女の表情が、何となく引っ掛かった。準備を整えて振り向いてみると、彼女は辛抱強く待っていた。
 その透明な無表情が、どこか泣き出しそうな表情に見えたのだ。


 塔の荷物を抱え廃ビルの屋上にとんとんと上って行く少女は、時折振り返り塔がきちんと着いて来ているか確めた。年齢の為に余り早く上れない塔をひどくじれったそうに少女は眺めるが、それでも往診鞄を抱えて律儀に待っている辺りが妙に子供じみて可愛らしいかもしれない、と年老いた医師は考えた。これであの物騒な物をちらつかさず、代わりに笑顔でも見せればもっと可愛いのだけれど、と息切れを起こしながら塔は率直な感想を抱く。
 顔色一つ変えずに屋上まで上りきった少女は、心持ち足音を忍ばせると、屋上の貯水タンクの横に据えられたプレハブ小屋に歩み寄って行った。そして静かに扉を開くと、塔の方を振り返る。「……ここ。」
 少女につられてそろそろと足を運び、塔は小屋の中を覗き込んだ。粗末な外装の割には、中は思ったほどひどくない。「失礼しますよ。」彼が中に入ると、すぐに少女も室内に身を滑り込ませて扉を閉めた。狭い玄関が窮屈なので、押しやられるように塔は中に入る。首を巡らせて、すぐに彼はこの小屋の中にいるもう一人の人影を発見した。
 「あそこ。」塔の脇を擦り抜けながら、砂色の髪の少女はその人物を指した。そして静かに滑るように足を運ぶと、その横たわった人影の隣に座り込む。首筋と口許に手をやって、ようやく彼女はほっとしたようにこちらを見た。「早く。」
 近寄ってみると、それはまだ若い女だった。漆黒の髪もすらりと長い肢体も、この少女と全く似ていない。どんな関係があるのか、と塔は気になったが、それについて訊ねるのは後回しにした。うつ伏せのまま横たわった女は、荒い呼吸と共に肩を上下させる以外、ほとんど動かなかった。
 まだ幼い顔立ちの少女は、黙ってこの女が纏う黒い上着を捲った。そしてそこに巻かれた包帯と、それを通してもわかる深い傷を見せる。塔はすぐに疲れを表情から消した。「いつの傷だい?」「わからない。」寡黙な少女は率直に答えた。眉間に皺を寄せる塔に、彼女は付け加える。「五日前に、しばらく帰らないと言って出掛けて、さっき帰って来た。」
 ふと嫌な予感がして、塔は静かに傷口に手を伸ばした。包帯を外そうとすると女は呻き声を挙げたが、構わず彼は包帯を外す。少女の突き刺すような視線に晒されながらガーゼを外し、塔はあからさまに顔をしかめた。
 左脇腹にある、縫合跡のある直線状の傷。明らかにメスで切り開いたその傷が意味するところを悟り、暗澹たる気分になった。(――腎臓を売ったか。)
 生活に困った人間が、自分の臓器を売ると言ったケースは何度も目にしてきた。そしてその後の処置を行ったのも一度や二度ではなかった。けれど、助けられたケースはほんの数件だった。摘出手術を行う場所の衛生状態も知れたものであるし、大抵売る側が為される術後の処置は杜撰なものだった。栄養失調等で抵抗力の落ちていた人間は、よほど運が良くない限り助からない。それは誰もがわかっていることだった。
 それでも、敢えてその道を選ぶ人間は決して減らない。この女性もその改善されない状況の被害者か、と痛ましげに彼は見る。
 大きな病院に入れれば何とかなるかもしれない、とは一瞬考えたが、それは到底無理なことだった。自分の身体を切り売りするほどの状態の人間が、病院に入れるだけの金を持っている訳がない。第一、この女はともかく連れの少女を見る限り、まず彼女達が不法入国者であるのは間違いなかった。迂闊に知れてしまえば、二人とも命がない。
ふと、ようやく彼はじっと見詰める少女の青い視線に気付いた。どう言おうか迷ったが、この少女には最も率直なことを告げることにした。「……最善は尽くす。けれど、助けられる保障はないよ。」
 「駄目。」少女は端的に言った。「勿論力は尽くす……。」「駄目。助けて。」碧眼の少女は、すぐに銃口をもたげる。険しい表情をする塔に、彼女は淡々と言った。「ダワが死んだら、わたしも死ぬ。」そして、銃口を自分の喉に押し当てた。
 だから、と続ける少女の言葉を塔はようやく遮った。「……わかった。わかったからそれを下ろしなさい。疲れるだろう。」唇を引き結び、少女は首を振った。長めに残した両サイドの髪がばさばさと揺れた。「ダワが死んだら、すぐ死ぬ。ダワの心臓が止まったら、すぐ撃つ。」
 今までで最も厄介な患者を引き受けてしまった、と僅かに塔は後悔した。それでも、どうにかしなければならなかった。


 「その銃を下ろしなさい。」再び塔は言った。「取り敢えず、出来るだけのことはした。もう後はこの人次第だよ。」
 少女は、何度か瞬いた後ようやく銃口を下に向けた。「……助かる?」「だからそれは彼女次第だ。」立ち上がり台所の水道に向かうと、塔は首を回しながら言った。借りるよ、と一言だけ断ると彼は水を流し手に付いた血痕を洗い流す。
 呆れるほどタフな女性だ、と言うのが率直な感想だった。機材の全く足りない手探りの治療で、しかも術後の処置のされ方も滅多にないほど杜撰なものだった為に、傷口の表面は膿みかかっていた。輸血が足りなかったのか後になって出血したのか、ひどい貧血状態でもあった。発熱もひどく、もしも治療中にショック症状を起こしたら確実に駄目だろうと塔は踏んでいたのだが、彼の荒っぽい治療に彼女は結局耐え抜いてしまった。削ぎ落としたように細いその身体のどこにそれだけの生命力を蓄えていたのか、むしろ塔は不思議にすら感じる。どんなに鍛えた男でも、これだけ見事な悪条件が重なっていれば、普通は助からない。
 もっとも、まだ楽観できる訳ではない。むしろ彼女の場合、この後の方が不安ではあった。熱が下がるまで身体が持つかはわからない。熱が下がってもこのまま目を覚まさないこともあり得るし、助かっても障害が残ることも十分に考えられた。それらの可能性を告げようかと塔は迷いながらあの少女に目を向けて、結局言わないことに決めた。
 ひどく頼りない小さな少女は、寝台に寝かされた女の額に掌を載せた。そして彼女の顔をまじまじと凝視した後、その首筋に手を伸ばす。「痛み止めを打ってるから、しばらくは何もわからないよ。薬が切れる頃にまた来るから、看病していてくれるかい?」汚い白衣の裾で手を拭いながら、老医師は言った。じっと彼の顔を凝視する少女に、塔は付け加える。「あんまり病院を留守にする訳にも行かないんでね。それともそれは信頼出来ないかい?」
 ようやく少女は納得したように頷いた。それからずるずると寝台に背中を預けて座り込む。さすがに治療の間中自分の首に銃を突き付け続けるのは疲れたらしい。その姿が急に不憫になって、塔は少女の短い髪の上に手を載せた。「少しでも容態がおかしくなれば、すぐに連絡を入れてくれたらいい。取り敢えず今は君に任せておくよ。」ポケットから電話番号を書いたメモを取り出して渡すと、少女は顔も上げずただこくんと頷いた。
 「喉が渇いたようなら、少しずつ口を湿らせる程度に飲ませてやりなさい。とにかく今は温かくして休ませて、体力が回復するのを待つしかない。いいね。」何度も念を押すと、その度に少女は律儀に頷く。そしてのろのろと立ち上がり、塔の目の前で水を張った桶を用意すると、それにタオルを浸して絞り女の額に載せた。
 その様子を振り返りながら、塔は玄関へと向かった。少女はずっと横たわる女の傍で所在なげにしていたが、ふと塔に気付くとぺこりと頭を下げて、少し考え込んだ後に小さく呟いた。「……ありがとう。」
 そしてすぐに彼女は女の顔を覗き込んだ。その姿を見て、微かに塔は微笑んだ。もう少しここにいて女の容態が安定するまで見届けたかったが、まだ病院に幾人も患者を残していることを思い出し、やむなく彼はこの屋上の小屋から出て行った。
 外はもう、夜明けを迎えていた。そして地上へと向かう階段を踏みながら、そう言えば彼女達の関係を訊かずじまいだった、と考えた。


 エバはダワの顔を見詰めた。あの医者はまだどうなるかわからないと言ったが、それでも彼女の苦痛は幾らか和らいだようなので、一先ずエバは安堵する。不意にエバは、ゆっくりと上下するダワの胸に手を載せた。まだ熱過ぎる彼女の体温と息遣いの下で、弱いが確かな鼓動が感じられた。
 何故だろう、とエバは思う。何故、こんなになるまでダワは血の繋がらない妹の為に尽くせるのだろう。一度だけ不思議で堪らず訊ねたことがあった。そのとき姉は僅かに笑って『わたしの満足の為よ。』と答えた。あのときの笑顔に自虐という単語がひどく当てはまると理解したのはつい最近だった。
 『わたしが勝手に、エバを可愛いと思ってるの。だから、全部わたしが勝手にやってること。』理由がわからない。自己満足の為に、どうしてここまでの苦痛に耐えられるのだろうか。そうまでして得たい満足感なんてあるのだろうか。全然わからなかった。
 『それがエバにとって不愉快だったら、ごめんね。気を付けるから。』初めから彼女は何の見返りも求めていなかった。誰に理解されなくても、例えエバにすら疎まれても、きっと彼女は淡々とその状況を受け入れてしまうだろう。どうしてそんなことが出来るのか、全然わからなかった。
 ダワの枕の隣にエバは顎を沈める。久々にじっくりと眺める姉の横顔は、ひどくやつれていた。元より黒目がちの美しい瞳をしていたが、最近では顔中目ばかりに思えるほど痩せていた。その目をきつく閉じると、こんなにも彼女は儚かったのか、とエバは今更ながら少し驚く。
 こんな姿にしたのは自分か、とエバは思う。そして試みに自分の口許を歪めてみる。ダワのように綺麗な自虐の笑みが浮かべられたか少し気になり、彼女に目を向けた。
 ふとダワの長い睫毛が揺れた。表情を取り落としてエバが覗き込むと、姉は微かな吐息を洩らす。そしてその中に、本当に微かな言葉が聞き取れた。
 慌てて寄せたエバの耳に、ダワは囁くように言った。「……ニジ……ガロ……。」
 「ニジガロ。」口の中でエバは反芻する。そして、ダワの投げ出された腕がいつの間にか彷徨うようにもたげられているのに気付いて、その手を取った。少し安堵したようにダワは息を吐く。「……ニジガロ……エバ、は……。」しばらく待ったが、次の言葉は囁かれなかった。怪訝に思いダワの顔を覗き込むと、再び彼女は眠ってしまったようだった。一応彼女が息をしているのを確かめて、エバはダワの手を握り直す。いつもよりも少し熱く、いつものように固い掌だった。
 (ニジガロ……。)昔、ほとんど記憶に残っていない故郷で耳にしたことがある言葉だった。確かそれは男の名前。お伽噺の英雄にも与えられたその名前の意味は。
 (――空飛ぶ、竜の息子。)
 ダワの口から、見知らぬ人の名前を聞くのは初めてだった。それが男で、しかもエバのことを告げようとしていたというのは、少し不可解だった。
 けれど、詮索する気にはなれなかった。ひどく不可解で不思議で訳がわからないことだったが。
 何かが、わかった気がした。丁度、空を飛ぶ竜の姿を知らなくても、それを見ればきっとすぐにわかるように。


 夢を見た。
 目の前に、ダワがいた。今のエバよりも目の前のダワは小さかった。
 (――起きなきゃ。)エバは思う。
 現実のダワはまだ目を開けていないのだ。こんな風に眠っていていいはずがない。
 エバは夢の出口を探して顔を巡らせた。
 その身体に、細い腕が巻き付いた。見ると、小さなダワがしがみ付いていた。
 そしてようやく、自分はダワよりももっとずっと幼い子供なのだとエバは知った。
 ダワは泣いていた。黒い長い髪が震えていた。
 泣きながらダワは言った。「ニジガロが、死んじゃったんだって。」
 エバは無感動に、自分の身体に顔を埋めるダワを見下ろした。
 (これは、夢じゃない。)古い記憶だ、とエバは思い出した。
 ダワは涙で汚れた顔を上げた。その頬に、くっきりとした傷が走っていた。
 あの時――故郷を追われたときに、兵隊に付けられた傷だ。
 ダワは、エバを庇ってこの傷を負った。その瞬間のことはよく覚えている。
 そしてニジガロという人は、そんなダワを庇ってどこかへ連れて行かれたのだと。ダワはいつも言っていた。
 ニジガロという人を、エバは覚えていない。
 エバはダワの傷に触れる。ダワはもっと泣いた。
 ぐしゃぐしゃの顔のまま、ダワはエバの顔を掌で包んだ。
 「……ごめんなさい。」
 何を謝るのだろう、とエバは首を傾げる。
 「ごめんなさい。」
 ダワの腕が、窮屈だった。息苦しさを覚えて顔を背け。
 ――そこに、真っ白なサボテンの花を見た。


 金縛りから解かれたようにエバは顔を上げた。そして目の前のベッドを覗き込み、それが空になっているのに気付いて顔色を変える。慌てて振り向き立ち上がった拍子に、肩から毛布がずり落ちた。
 床に落ちた毛布の裾を踏み付けた拍子に足がずるりと滑ったが、構わずエバは駆け出した。そして、暗い窓辺に立っている黒い人の腕を掴む。
 「ダワ!」月明りに目を凝らすと、ダワは仄かに微笑んでいるようだった。まだほとんど顔色がないようで、ひどく不安だった。
 ダワはエバの頭にそっと掌を載せた。慌てて掴んだそれがほんのりと温かかったので、ようやくエバはほっとする。「……動いちゃ駄目。」
 「もう大丈夫よ。」医者に何度も『信じられないほどタフだ』と言われたダワは、窓の外にちらりと目を向けて掠れた声で言った。「……ごめんね、わたし一週間も寝てたのね。本当にごめんね。」どうしてそんなことがわかるんだろう、と思ったエバは、窓の外に浮かぶ月の姿を見てようやく納得した。多分月齢を読んだのだろう。
 急にエバは、何かが堪えきれなくなった。そのままダワの身体に抱き付いて、胸元に顔を埋める。少しだけダワは声を上げたが、すぐにそっとエバの頭を抱えた。「……ごめんね。」
 「駄目。」エバは間髪を入れずに答える。くぐもった声で彼女は言った。「駄目、許さない。死ぬの。」昂ぶった頭は、文章を構築出来なくなっていた。「駄目、絶対。駄目。」そして頭を揺らす。少し汗の臭いを帯びたダワの身体の温もりに、エバは固く目を瞑る。
 ダワの腕は、優しくエバを撫でる。呼吸をするたびにゆっくりと動く胸が柔らかかった。「ごめんね、他に方法がなかったの。でも、もう大丈夫よ。」エバは首を振る。子犬のようにぐいぐいと、ダワに頭を押し付けた。
 それからふと、僅かに震える声で言った。「――エバの為、だったの?」「ちが……。」否定しそうになるダワの、背中側の傷をエバはわざと触れた。気丈なダワも呻き声と同時に言葉を途切らせる。そのしかめた顔を無表情で見上げながら、エバは言う。「勝手に、死ぬの、駄目。」そして再びダワの傷を指先で突いた。何の抵抗もしないまま、ダワは息を乱して蹲る。
 初めてエバは、自分のことを愚かだと思った。他に術が見付からないのだ。ダワを、死なせないで、引き止める術が。「ダワは、エバが好き?」窓際の壁に片腕を預けて、もう片方の腕で傷口を庇うダワは、苦しそうに何度も頷いた。きっとその仕草に、嘘はない。
 「なら、わたしのものになって。」何の音もない夜に、エバの声が冴えた。床にへたり込んだままのダワは、長い睫毛で翳る瞳をエバに上げた。そしてようやく整い始めた呼吸の間に素早く言う。「ずっと前から、ダワはエバのものよ。」
 ああ、そうか、と――エバは何かが自分の中ではまり込むのを感じた。ずっと探していた正解は、こんな歪んだものだったのだ。ダワの、純粋すぎてこんなにも歪んでしまった愛情は、こんな形でしか受け止められないのだ。「だったら、勝手に死ぬのは許さない。」
 ダワの睫毛が白く光っているように見えた。きっと、月の光を載せているのだ。「ダワが死ぬのは、エバが殺すとき。ダワが死んでいいのは、わたしが許して、殺すときだけ。勝手に命を捨てるのは、エバの為でも許さない。」床に足を崩しているダワを見下ろしながら、エバは言った。ずっと自分を守り続けてきたのは、こんなに細くて小さな女性なのだと、今更ながらに目の前に突き付けられた気がした。彼女を、彼女自身から救うには、こんな手荒な方法しかなかったなんて。「――ダワを殺すのは、わたしだけ。」
 エバは、自分がどんな表情をしているのかわからなかった。怒りでもない、喜びでもない、悲しみでもない――だから、無表情のはずだと思う。
 ならば、この頬を伝う熱いものは何だろう。
 ダワは立ち上がろうともせず、ただこくりと頷いて見せた。それで十分だった。契約は成立した。
 この女性の生殺与奪の権は、全てこの神の娘のものになった。


 ダワをもう一度眠らせて、ようやくエバは椅子に座った。見ると、テーブルの上にうっすらと埃が溜まっている。掃除の仕方を今度学ぼうかとぼんやり思いながら、エバはふとテーブルの上に目を注いだ。仄明るい月のように白い花が、殺伐とした部屋の中にぽつんと咲いていた。
 ――ずっと、忘れていたのに。エバはサボテンの鉢を引き寄せる。
 本当に純白の花だった。花芯までが痛いほどに白い。触れると砕けそうなほど繊細なのに、刺の中で背筋を伸ばして咲いていた。不意にエバはもぎ取ってダワの髪に飾りたい衝動に駆られた。きっと彼女の黒髪にはとてもよく似合う。
 花に手を伸ばしたエバは、ちくりと熱い衝撃を覚えて手を引いた。刺が突いた指先を眺めて、再び彼女は花に視線を戻す。
 僅かに甘い芳香が鼻を突いた。花は、実を結ぶ為に付くのだと学んだ。だとしたら、これも別の誰かの花粉を得て、実る瞬間を待っているのだろうか。
 まだ痛々しく萎んだ黄緑色の肌をそっと見遣った。大切にしたくて、大切にしすぎて、こんな姿にしてしまった――目もくれなくなった瞬間に、こんなに見事な花を付けた。
 このサボテンはダワなのだ、とエバは感じた。
 (……駄目。)どんなに頭の中で打ち消そうとしても、その感覚は消えなかった。ダワはこのサボテンだ。
 砂漠に一人佇む、美しい女だ。
 だから、枯れることだけは許さない。


*                *                 *



 何度か塔医師は廃ビルの屋上にある小屋に往診をしていたが、当の患者が恐ろしい勢いで回復しているのもあり、次第に疎遠になって行った。そしてある日、一週間ほど置いて診察に出掛けて見ると、その小屋は既に空家になっていた。つまり夜逃げだな、と塔は苦笑したが、あのダワと呼ばれた女性がそれだけ回復したことを意味するのだと考えて、取り敢えずよかったと思うことにした。
 一応小屋の扉に手を掛けてみると、鍵は空いていた。おや、と思って扉を引くと、がらんと何もない部屋の中に何かが残されているのを見た。遠慮がちに玄関を潜り、それに近付いてみる。小さなメモを挟んだそれは、小さなサボテンの鉢だった。盛りを過ぎた花が一輪、そして今開いたばかりと言うような初々しい花がもう一輪、ずんぐりとした幹の上に咲いていた。
 メモには一言だけ『ありがとうございました』と書いていた。ひどく形の歪んだハングルで、mとbのバッチム(子音)が見分けられないような字だったが、微笑ましいと塔は思った。多分、あの少女が書いたのだろう。
 そしてそのときになってようやく彼は、一度もあの少女の笑顔を見ていなかったことに気付いた。
 (……あの子達は、無事にいるだろうかね。)無性に気になったが、やむなく塔はサボテンの鉢を片手にプレハブ小屋を出た。


 「……あれだけ大事にしていたのに、よかったの? 」ダワは新しい部屋を掃除しながら訪ねた。雑巾を絞りながら、エバは頷く。そしてごしごしと壁の染みを力任せに拭き取り始めた。
 新しい部屋は前よりずっと学校から遠くなったが、それでも日辺りはさほど変わらない。多分あの連中は嗅ぎ当てようとすればすぐにでも見付け出してしまうだろうが、全額を纏めて返済された以上、余り捜索に血道を上げるとも思えなかった。僅かでも安全に暮らせるのなら、その方が望ましい。
 エバはふとダワに目を向けた。意識が戻った後、彼女は時々熱をぶり返しつつも、すぐに床を上げてしまった。あの老医師に何度叱られても、それを聞き入れるダワではなく、いつの間にか新しい部屋を見付け出して来てこんな風にばたばたと引っ越すことになった。もう外から見ればすっかり全快しているように見える。あの生々しい傷跡もきっとまだ傷むのだろうが、ダワは何事もなかったかのように立ち居振舞えるようになった。
 ――きっとこんなダワは、長くは生きられない。不吉な予感だと思いつつ、エバはほとんど確信していた。勇敢で真面目で勤勉な者ほど、戦場では誰よりも先に死んで行く。どんなにきつく握り締めても、彼女の命はきっとエバの腕を擦り抜けてしまう。
窓の桟を拭うダワの横顔を、エバはじっと見上げた。あの目が閉ざされて、あの唇の色が抜け、二度と動かなくなる姿は、呆気ないほど容易く想像出来てしまう。その原因が病気にしても、怪我にしても、少なくともエバよりも後に死ぬことはないのだろう。
 ならば、とエバは思った。誰かに何かに殺されるくらいなら、その前に自分が殺そう。それできっとダワは自由になれる。エバという枷から開放される。あらゆるしがらみを解くことが出来る。
 (そのとき、わたしはどうするんだろう。)ふとエバは手を止める。それは全く想像が付かなかった。ダワを弔うのだろうか。後を追うのだろうか。忘れるのだろうか。全く見当が付かない。自分のことなのに、と不思議になって、彼女は僅かに首を傾げた。
 ――ただ、とエバは一つだけ結論を出した。
 自分には、きっとサボテンの栽培は出来ない。いつか必ず、枯らしてしまうのだろう。
 あの白い花を引き千切ってしまうのだろう。水を与え過ぎてしまうのだろう。
 ダワの、妹だから。

FIN


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その花の名前は

  

中編

  砂の花

 かとりせんこ。

番外編紹介:

――どうしてダワはわたしを慈しむのだろう。
北朝鮮をモチーフにした架空の世界のお話です。

注意事項:

注意事項なし

(本編連載中)

(やや暴力的表現あり)

◇ ◇ ◇

本編:

 Dreaming

サイト名:

 非因果的連結

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