千夜一夜


 ――多分、先生は俺のことが嫌いなのだろう。
 正楼樹は、物心付いたときからずっとそう考え続けていた。
 父なし児を産んですぐに他界した母に代わり、ずっと自分の面倒を見続けてくれた先生――瀬戸甫民は、確かに立派な人物だと思う。けれど彼に対しては、申し訳ないとは思うけれども親愛の情を抱くことが出来ずにいた。
 もうずっと前、理由すらわからないくらい前から、正楼樹と甫民の間には埋めることの出来ない溝があった。幼い頃はそれでも、少しでも彼に近付きたいと努力を続けていたのだが、不意にあるとき急にそれが不毛なことに思えてしまったのだ。それ以来努力を続けることに意味が見出せず、むしろ次第に正楼樹の方から甫民を拒絶するようになっていった。そして彼の庇護下から飛び出して、もうどのくらいになるのか。
 何故だろう、と正楼樹はふと考える。何故甫民は、こんなにも自分を疎ましげに見るのだろう。幼い頃から何千回も何万回も自分自身に問い続けた質問なのに、未だに答えがわからない。何かかつて自分は彼に対して、ひどく申し訳ないことをしてしまったのではないだろうか、と考えてはみるのだが、思い当たるものの全てがどうも決め手に欠ける気がする。些細な食い違いなどとは訳が違う、もっと根源的な問題があるのではないだろうか。
 「ジェンルー? 」
 ふと心配そうに呼び掛ける声を聞いて、彼は振り向いた。慌てて笑顔を取り繕う。「何でもない。少し考え事をしていたんだ。」
 顔に掛かる亜麻色の柔らかい髪を押さえながら、彼女は僅かに眉間を寄せた。「……先生のこと? 」
 「そうじゃないよ。ニーヴォが心配することじゃない。」正楼樹が静かにそう言い聞かせると、彼女は少しだけ不安そうな顔をしたが、黙って小さく頷いた。ふと笑顔に疲れて正楼樹は表情を崩し、そっと彼女の細い髪に指を絡めた。
 菫色の澄んだ目でじっと彼の顔を見詰めていたニーヴォは、その表情に浮かんだ悲しみと諦めの色を拭い去ろうとするように、白い指先を正楼樹の頬に這わせた。「ジェンルー、やっぱり家に帰ろう。わたしはいいから、先生の傍にいてあげて。」懸命に言葉を選ぶ彼女の唇を、不意に正楼樹は唇で塞ぐ。ん、とニーヴォはくぐもった声を洩らす。
 「嫌だ。そんなこと、もう言わせない。」ほんの僅かだけ唇を離した正楼樹は、再びニーヴォの髪の毛を掻き混ぜるように抱き締めて深く口づけた。
 これが、許され難い大罪だと知りながら。


 正楼樹は皇帝だった。
 例え国はとっくの昔に滅んでいようとも、その国を懐かしむ者がいてその復興を諦めない者がいる限り、王家直系の血を引く彼は紛れもなく皇帝であった。最後の心の拠所であり、彼等の行動の旗印であった。それは正楼樹が正楼樹として生まれてしまったことと同じくらい動かしようのない残酷な事実で、本人の希望如何に関わらずやめられるものではなかった。
 だから仕方がないと思っていた。政府に密かに命を狙われるのも、どこまでも追い立てられて安住の地を得られないのも、全て自分にはどうしようもないことだと諦めていた。自分の為に多くの人々が命を散らすのを黙って見ていなければならないのも、ただ王朝の生き残りだと言うだけで他に理由のない憎悪を向けられるのも、全て自分の運命だと思って受け入れることにしていた。
 皇帝であるがゆえに、奪われたものは計り知れなかった。けれど予め失われたものであれば、それを恋しく思うはずもない。たった一人の家族であるはずの甫民とも心を繋ぐことは出来なかったが、それでも構わないと思っていた。どうせ一人だ、自分はどこまで行っても一人なのだと。
 ――彼女と、ニーヴォと出会うまでは。


 甫民は元々、中華政府の工作員試験を突破して認定を受けている人物であった。それが政府を裏切り、亡命先に選んだ韓半民国に食い込み正式に工作員として採用されたのは、まだ正楼樹が幼い頃だった。彼が自分の知恵を売り、その代価として正楼樹の身の安全を買っていたのだと知ったのは、一体いつ頃のことだっただろう。
 あの誇り高い老人は、自分が民国政府の元に跪く代わりに、皇帝正楼樹に手出しを加えないことを要求した。とは言え民国の実情はほぼ中華の属国に近く、つまりそれは裏切りを促すことであった。それでも韓半民国はそれを承諾した。それだけ甫民の力を高く買っていたのと同時に――恐らく彼等自身が密かに、中華からの独立を目論んでいたものと今になれば思う。
 そして正楼樹は、束の間の安息を手に入れた。しかしそれは大きな制限を掛けられたものであった。どれだけ甫民が掛け合っても覆らなかった条件――それは、正楼樹が家族を得てはならないことであった。
 政府の見解はこうであった。「正楼樹個人の安全は保証しよう、場合によってはある程度の保護を与えてもよい。しかしそれはあくまでも正楼樹個人に対するものであって、他の王族に対しては従来と変わらない強硬な姿勢を貫くことにする。またもしも正楼樹及び甫民が彼以外の王族を庇護した場合、彼等にも同様の処罰を下す。」つまり正楼樹の婚姻及び子供の存在が一切禁止されていた。
 食い下がろうとする甫民を制止したのは他ならぬ正楼樹自身だった。――いい、どうせ今までも家族なんていなかったんだから。そんなものいらない、と。そんなことよりもどこか落ち着いたところで休みたかった。身を潜め、逃げ続ける生活に疲れ切っていたのだ。
 かつて彼の祖先が繁栄させた乾帝国――その冊封に入っていた王朝が王都として構えていた開城という街は、その縁があって比較的王朝派の人間が多かった。甫民は、そこを彼等の落ち着くべき場所として選んだ。中華政府は民国政府に対し、民国に亡命した王朝派の人間の処分を繰り返し要求していたが、甫民と正楼樹を匿わねばならない以上その周辺域の密入国者も隠蔽しなければならなくなるだろう、という甫民の配慮があった為だ。その読みは的中し、いつしか開城には水面下で旧王朝派のコロニーが形成され始めた。甫民と正楼樹もまた、密かに彼等の亡命の手引きを手伝っていた。
 ニーヴォと出会ったのは、そんな中でであった。
 彼女は別に王朝とは何のつながりもなかったが、欧米圏と交流のないこの国であり得るはずのない容貌をしており、それゆえに密入国者として処罰される直前の状況に置かれていた。そして偶然この開城に逃げ込んで来ていたのだった。
 初めて会ったとき、痩せっぽちの彼女は白い肌を汚し、綺麗な淡い金の髪を染めて短く刈り込み、まるで少年のような出で立ちをしていた。半島に漂着し、どこにも行く宛がなく彷徨っていた彼女は、正楼樹にひどい居た堪れなさと共感を覚えさせた。そしてつい何くれとなく面倒を見てしまう内に、無邪気な彼女に惹かれていった。
 ――それに先に気付いたのは、正楼樹自身ではなく甫民の方だった。彼はまだ恋と言う認識すらなかった正楼樹の眼差しに、過剰なほどに反応した。そして正楼樹に秘密で、ニーヴォをどこかへやろうとしたのだった。彼等の庇護を離れると言うことは、即座に生命の危険に晒されることを意味する。甫民の企てを知った正楼樹は、無論激怒した。元々ぎくしゃくとしていた二人の関係はこれで完全に決裂し、正楼樹はそのままの勢いでニーヴォを連れて家を飛び出した。
 その夜、甫民への怒りをぶつけるようにして、半ば無理矢理にニーヴォを抱いた。突然のことに驚いて目を丸くする彼女を力尽くで組み敷いて、有無を言わさず何度も彼女の口を塞いだ。怯えて抵抗らしい抵抗も出来なかった彼女は、一晩中泣きながらようやく解放された唇で謝った。ごめんなさいごめんなさい、と壊れたように繰り返す彼女の震えた声でようやく我に帰り、痩せた彼女の身体に自分が付けた傷跡を見たとき、何だかどうしようもなく愛しくて悲しくて申し訳なくて涙が溢れた。自分の身勝手さと寂しさがひどく情けなくて涙が止まらなかった。
 そのときに誓ったのだ。例え命に代えても、彼女は自分が守る、と。


 甫民の元を離れてどれくらいになるだろう、と正楼樹はふと考えた。もうずっと長い間、彼に会っていない気がする。それを寂しいと思うほど子供ではなかったが、きっと年老いたあの老人にとって、正楼樹とは全く違う長さの時間だろうとは何となく感じる。
 一度くらいは戻るべきなのだろうか、と時々ふと考えるのだが、ニーヴォを見るたびにそれを思い止まっている。駄目だ、戻ったらきっと彼女とは別れさせられる。あの人を説得することは出来ない。ならばいっそこのまま生き別れたままでいた方がよい。
 と、不意にニーヴォは自分の髪の毛を引っ張って摘みながら言う。「……丁度、そろそろ千日目なんだよ。」
 虚を突かれた顔をする正楼樹に、彼女はにこりと笑って見せる。「ジェンルーと一緒に家出して、もうじき二年と九ヶ月だから。その間にほら、こんなに髪伸びたの。」そう言うと彼女は毛先をくるりと指先に巻いた。ああ、と正楼樹は声を上げる。もうそんなになるのか、と思った。
 外国人だと知られないように、女だと侮られないように、その髪を染めて短く刈り込むのは彼女の自衛手段だった。そんな彼女は、それでも逃亡生活の中で髪の毛を少しずつ伸ばし始めた――守ると誓った正楼樹を、本当に信頼してくれている証だった。それは彼にとって、何よりも嬉しいことで――何があっても、誰にであっても、奪われたくなかった。
 いつまでもこんな生活が続くはずがない、とどこかでわかってはいたが、それでも正楼樹は帰ろうとは思えなかった。内紛の続く極東ロシアを点々として、バム鉄道からシベリア鉄道沿線を経由し、一番西はモスクワまで行った。情勢不安なロシアは、それでも半島よりは遥かに中華の影響が少ない。古い地域へと行けば乾王朝と友好の深かったユロフスキー皇家を慕う人々もまだまだ多く、彼等二人きりで息を潜めて暮らすには都合もよかった。そこにいれば、韓半民国政府が求めるのも中華が心底警戒しているのも、実際のところは皇帝その人ではなく甫民を基とした周辺の人々なのだと痛いほど感じることが出来た。
 そこにいれば、皇帝という地位を忘れることが出来た。このまま寒さの中でニーヴォや村の人々と寄り添って、密かに生きて行くことが出来ると思った。彼の背負ってきた素乾王朝六百年の歴史を捨てることが出来ると思っていた。
 ――けれど気付いたときには、彼はサハリンを経由してウラジオストクまで戻って来ていた。穏やかな暮らしの中に少しずつ、共産政府の影が亀裂を入れ始めたことも遠因の一つではあったが――それ以上に、彼には捨てられないものが多すぎた。
 「ニーヴォ、ごめんな。」ぽつりと正楼樹は呟く。きょとんとする彼女に、小さな声で彼は謝った。「ごめんな。俺の勝手で振り回して――本当にごめんな。」
 守ると言いながら、彼女を一番傷つけているのは紛れもなく自分。この寒い大地に、彼女を引き摺り回したのは結局のところ自分。何よりも自分が愛さなければ、彼女もきっとこんな風に追われることはなかった。それを思うと辛かったし、それを認めるのも辛かった。
 ニーヴォは俯く正楼樹をじっと見詰めていたが、やがて明るい声で言った。「……ね、やっぱり先生のところ戻ろう。」
 「……。」押し黙る正楼樹の背中に手を回して、微笑み掛けながら彼女は言う。「一緒に暮らしたくないなら、それでも構わない。でも、あんな風に喧嘩別れしたままなのはいけないよ、絶対。」
 ――どうして、と正楼樹は思う。そんな彼をあやすように、諭すようにニーヴォは続ける。「認めてもらおう、私達のこと。何をどう言っても、先生はあなたを育ててくれたんだから。お父さんみたいなものなんだから。」
 ――どうして彼女はこんなにも、望んでいる言葉をくれるのだろう。
 正楼樹は小さく頷いた。ニーヴォは少し背伸びをすると、長身の正楼樹の頭をぽんぽんと軽く撫でた。


 「ねえ、ジェンルー。梅が咲いてる。」嬉しそうにニーヴォは街角の庭木を指差した。記憶の中と少しも変わっていない風景に、正楼樹は目を細めた。
 半島の中でも東朝鮮湾沿いは、さほど発達した都市がない。密脱国者を防ぐ為に多少海軍が配置されている程度で、王朝派も中華政府のスパイも入り込まないこの地域は、比較的安全に通り過ぎることが出来た。トラックを改造したようなバスで国境から元山まで向かい、背骨のように半島を通る狼林山脈と太白山脈の間の峠を越えて開城を目指す。比較的深刻な密入国は半島西部で起こることが多く、二人は簡単な変装だけで何とか目を眩ますことが出来た。
 けれどそれも、正楼樹が単なる通行人である場合に限られる。もしも彼が定住しようとすれば、たちまち政府はそれを嗅ぎ付けて混乱が発生するに違いない。平和そうな景色を見るたびに、そんな風に正楼樹は沈鬱な気持ちを思い起こさせられた。
 (――先生に会うからって、随分落ち込んでいるもんだな、我ながら。)開城市に入って格段に溜息の増えた正楼樹を励ますように、明るく振舞うニーヴォの笑顔が何となく辛かった。甫民は戻ってきたのを見て何と言うだろう、ニーヴォにひどいことを言い出すのではないだろうか。彼からニーヴォを守ることは出来るだろうか。そう思うと気分が落ち込んでいった。
 と、その瞬間だった。不意に背後から声が投げ掛けられる。「……お前、見掛けない顔だが何者だ。」
 先に振り向いたのはニーヴォだった。ふと正楼樹は、慌てて彼女を背後に押しやると振り向いた。
 訝しげな顔をした警官が、そこに立っていた。まずい、と正楼樹は息を呑む。
 この地域は、甫民と他ならぬ正楼樹自身が積極的に支援をした為、王朝派の密入国者が極めて多い。それに目を付けて、他の地域の密入国者も多数紛れ込んでいるのであった。甫民の指示下に置かれた入国者はそれでもある程度統制が取れているが、関係のない――例えば中華系黒組織や極東ロシア自治共和国区の人間は、政府にも甫民にも与することなく問題を起こす場合がある。そこで正楼樹がここを飛び出す直前から、少しずつその辺りの警戒が強まって来ていたのだ。恐らくその為の巡回だろう。
 警官は怪訝そうに眉間を寄せる。「……女、どうも変な目の色をしているようだが? 」ニーヴォは慌てて掛けていた色眼鏡を押し上げた。束ねた髪を帽子の中に仕舞い込んではいるが、知らずの内に彼女はそのつばを押さえる。ますます警官は不審そうな表情をした。
 甫民との関係を示す証拠があれば、恐らく解放されるのだろうが――と正楼樹が逡巡していたときだった。
 「……何か御用ですかな? 」警官の背後から、しわがれた老人の声が響いた。鬱陶しそうに振り向いた警官は、その老人の顔を見るなり見る見る表情を強張らせる。それから、ようやく言葉を選びながら言った。「し、失礼致しました。見慣れない者だったので、つい……。」
 「見慣れない。」そう復唱すると、老人は皮肉そうに鼻先で笑う。「そうですな、見慣れないのも無理はない。」
 俯いて唇を引き結ぶ正楼樹の方を見上げると、老人――甫民は淡々と言った。「お久し振りですな。こんなところで立ち話という話題でもなさそうですから、家にお出でになられたらいかがですか。」
 瀬戸甫民が敬語を使う相手、と言うことで、警官も正楼樹が何者なのか見極めたようだった。うろたえた表情で甫民と正楼樹の顔を見回した後、そそくさと逃げ出すように彼は立ち去った。残された三人はしばらく押し黙ったが、やがて甫民はくるりと踵を返すと足を踏み出す。
 「……ど、どこかへお出掛けになるところだったんじゃ……。」慌ててニーヴォが呼び掛けると、髭を揺らして老人はちらりと視線を向けた。「保留に致しましょう。またどこかへ姿を消されては堪らない。」
 おずおずとニーヴォは隣の正楼樹を見上げた。じっと俯いていた正楼樹は、顔を上げられないまま足を踏み出し、甫民の後を追った。


 随分久方振りになる甫民の借家は、記憶の中と寸分の変化もなかった。正楼樹の知る限り一度とて配置の変わったことのない家具や、古さゆえの壁の染みは、まるで家を飛び出したその日に戻って来たようにそのままで――ただ、壁に積み上げられた本だけが確かにその数を増やしていた。懐かしさを感じる場所であるはずなのに、それは「彼一人いなくなったところで、何も変わりはしない」という甫民の意思が滲み出ているようで、正楼樹にとってひどく居心地が悪かった。
 およそ千日の日月は、長い時を生きてきたこの老人にとって、何ら影響を与えるものではないのだと改めて突き付けられた気がした。ほんの僅か白髪が増えたようにも思えるが、元より彼の顔を直視することなど滅多になかった正楼樹はそれすら自信を持つことが出来ない。自分の中で流れた同じ歳月の重みを思うと、自分がひどく卑小で惨めな存在に思えた。
 いつも居間として使っていた部屋に二人を通すと、甫民はそのまま彼等の向かいに腰を下ろした。客人としてもてなそうとするでもなく、家族のように打ち解けるでもなく、ただ白髭の老人はじっと押し黙る。しかし正楼樹にも言葉が見付かるはずがなく、しばらく沈鬱な沈黙が三人を取り囲んだ。
 やがて業を煮やしたように、甫民は口を押し開けた。「……無口なお方だとは存じておりましたが、まさかこれだけ久々にお出でになられてご挨拶もなさられないとは思わなかった。」はっと弾かれたように顔を上げた正楼樹は、慌てて机に頭をぶつけそうなほどの勢いで頭を下げた。「す、すみません……。」「陛下、わたしはあなたのお育て方を間違えたようだ。鸞鈴樹様に顔向けすることが出来ない。」
 「……すみません……。」正楼樹は頭を下げたまま、血が滲みそうになるほど拳を固く握り締めた。隣のニーヴォが、不安そうな視線をちらりと寄越すのがひどく痛い。
 甫民の眼差しは、ひどく冷淡だった。恐らくニーヴォと二人で帰って来た様子を見た瞬間に、全てを理解していたのだろう。「まあいい、元よりあなたにそのようなものは期待しておりませんでしたから。ご無事ならば何よりです。」それからちらりとニーヴォにも視線をくれる。「……もっとも、女性には少々辛い旅だったご様子ですな。」ニーヴォは慌てて否定の声を上げるが、ほとんど言葉にならなかった。
 正楼樹はじっと黙り込んで膝頭を見詰める。そう、それは事実だった。彼が引き摺り回して旅を続ける内に、彼女の身体にはたくさんの小さな傷がついた。貧しさゆえの凍傷や、追手に見付かり逃げたときの擦り傷が指先や関節にはたくさん残っている。出会った頃の傷を癒すどころか、彼女の身体は確実に痛々しさを増していた。
 不意に甫民は呼び掛ける。「陛下。」有無を言わさないものを感じ、思わず正楼樹は顔を上げた。甫民は白眉の下の細い目を、睨むように彼に向けていた。「――もうおわかりでしょう、あなたは他人を幸せに出来ない人だ。」
 思わず息が止まった。その顔をじっと見詰めながら、淀みなく甫民は続ける。「あなたが失踪して、どれほどの人間がその巻き添えを食らったとお思いですか。あなたを無事に逃がそうとして犠牲になった者すらいるのですよ。後先を考えず、自分のことしか見えていない――本当にあなたは、あの男に似ている。」
 吐き捨てるように呟いた最後の言葉で、ふと正楼樹は腑に落ちた気がした。
 「……先生は、俺の父親を憎んでいるのですね。」
 ずっと幼い頃から、噂だけは耳にすることがあった。正楼樹の父は流れ者で、身篭った鸞鈴樹公主を捨てたのだと。病弱であった母は、その心労もあって正楼樹を産みすぐに亡くなったのだと。
 ――それならば、母を殺したのは俺達父子か。不意に正楼樹は思った。
 「あの方を憎んだところで、どうにもなりますまい。あの方を心底愛した鸞鈴樹様の為にも、あなた様を真っ当にお育てしようと思っておりましたが、どうやら力不足だった模様ですね。」淡々と述べられる言葉の孕んだ棘が痛い。何度も唇を噛みながら、正楼樹はじっと甫民の声を聞いていた。「あなた様はお父上によく似ておいでだ。後先顧みず他人を振り回し、あまつさえ一番愛さねばならない相手を一番傷付けて行く。」
 ああ、と正楼樹は甫民を見た。その目を見たとき、ようやくこの剥き出しの憎悪の意味がわかった気がした。
 この人はきっと、母を愛していたのだ。
 母の乳兄弟であったこの男は、きっと幼い頃からずっと傍にいた公主を――自分が守るべき、自分がそこに存在する意味そのものであった女性を愛していたのだ。今になってようやく、長年の謎が解けた気がした。それならば全て納得が行く気がした。どれほど努力しても受け入れてもらえない理由も、冷静な彼がこんなにも憎しみを顕わにする意味も。
 絶望的な事実に肩を震わせて、やっとの思いで正楼樹は言う。「……すみません。」もう絶対に許されることがないと言うことを知りながら謝るのが、こんなにも苦く哀しいことだとは思ったことがなかった。
 誰よりも愛した女と、その女を苦しめた誰よりも憎い男の間に出来た子供を育てるのは、どんな思いだっただろう。しかも女を殺して生まれた子供は、次第に憎くて堪らない男の面影を帯びてくる。それはどれほど苦しいことだっただろう。
 「――すみません……。」搾り出すように正楼樹は呟いた。
 全て自分にはどうしようもないことだった。けれど自分が存在するだけで苦しむ人がいる。自分が存在したばかりに奪われた命がある。それを思うと居た堪れなかった。「……俺は、生まれて来たこと自体、間違っていたんですね――。」
 甫民は眉をしかめたまま目を伏せて、ゆらゆらと首を揺らした。「悪いことは言いません、別れなさい。彼女を大切に思うのなら、あなた様の傍に置いてはいけない。あなた様もご存じでしょう――もしも彼女があなた様の子を身篭ることになれば、諸共に処分の対象にされるのです。永遠に一人で居続けても構わないと仰せになられたのは誰ですか――他ならぬあなた様ご自身でございましょう。」
 そう、あの頃はこんな思いを知らなかった。こんなにも誰かを愛することが不可避なことであるとは思っても見なかった。それ以上に、あの頃の自分は安息を求めていた。どこか一つ処へ落ち着きたかった。甫民に手を引かれて方々を彷徨い歩くのは辛かった。そしてもしもどこかに落ち着くことが出来たら――甫民が、優しくなるのではないかと思っていた。
 彼の任務がどんなものなのか詳しくは知らなくとも、子供の目から見てそれが危険極まりないものであることはわかっていた。きっとそんなものに追い立てられる生活をしているから、甫民は厳しくならざるを得ないのだと思っていた。もしもどこかに安住することが出来れば、彼も優しくなってくれるのではないかと願っていた。他の子供達の、父親のように。
 浅はかな夢を描いていた自分が堪らなくおかしかった。おかしくておかしくて、涙が出そうだった。
 ――俺は、存在すらしない方がよかったのだ。
 血の滲んだ唇を押し開けようとしたその瞬間だった。
 「――あの、わたし、幸せです。」不意に華やかな女性の声が場を振るわせた。思わず正楼樹は自分の隣を見る。きっ、と正面を見据えて、少し青褪めたように見えるほど覚悟を決めた表情で、ニーヴォは言った。「だから……じょ、ジョンロゥシュ…様と一緒にいさせて下さい。」
 見ると、甫民は僅かに呆気に取られたような顔をしていた。だが、すぐに訝しげな表情を取り戻す。「……しかし、この方のお傍にいれば、やがてあなたも処分の対象にされます。そもそもこの方について旅を続けるのは、女性の身ではお辛かったのでは? 」
 「……え、と…それは確かに…時々大変だとは思ったんですけど……。」隣の正楼樹の表情を横目で窺いながら、ニーヴォは背筋をぴんと伸ばす。「でも、それ以上に彼の傍にいられることは私の幸せでした。」
 怪訝そうな顔をする甫民に、慎重に言葉を選びながらニーヴォは言う。かさかさに荒れた白い頬が、上気してほんのりと紅色を帯びる。「あ、あの…わ、わたしにとっての幸せ…って、彼の傍にいられることなんです。それじゃ、駄目ですか? 」
 「駄目とは? 」逆に尋ね返されて、一瞬どきりとした表情を浮かべたものの、それでもニーヴォは甫民の顔を見据えた。「……か、彼の傍にいられるなら、他に何もいりません。何もいりません、何も望みません、ただ…彼の傍にさえいられたら、わたしはそれで、幸せなんです。……だから、許してもらえませんか? 」
 呆然と正楼樹は、隣に座る女性の横顔を見た。金の髪と紙のように白い肌は儚げなほど淡いのに、その菫色の眼差しは凛として正面を見詰めている。ああ、と彼はぼんやり思った。初めて会ったときも、彼女のこの眼差しに惹かれたのだ、と。
 彼女を守ろう、と言う自分のおこがましさを感じた。彼女はこんなにも強いのだ――自分など、比べ物にもならないほどに。
 やがて甫民は、重い口を開く。「――陛下、あなた様は? 」
 「え……。」思わず虚を突かれた正楼樹は、すぐに質問の意図を理解して何度も頷いた。「は、はい。」
 「幸せなのですか? 」念を押すように言う甫民に、今度は間髪入れずに頷いた。「はい。」
 やがて二人の顔をじっと眺めた甫民は、長い長い溜息を吐いた。ぎくりとする二人に向かって、彼は不意に表情を崩した。その白い髭に覆われた表情が笑顔なのだと、正楼樹だけは知っている。信じられない思いで目を瞠る彼に、甫民は言った。「――そうですか。」
 その瞬間に、涙が出た。堰が切れたように涙がぼろぼろと溢れ出して止まらなくなった。堪え切れなくなって声を洩らすと、隣からそっと優しい手が背中に回された。その顔を直視できないまま、彼はニーヴォに縋り付く。
 背中を丸めて嗚咽を上げる正楼樹の背中と頭を撫でながら、ふとニーヴォは正面の老人を向き直った。疲れたように目を伏せて肩を落とした姿は、彼女の記憶の中よりも随分と老け込んでいた。申し訳ないような思いで、彼女は小さく言った。「……すみません、随分長い間、彼を独り占めにしてしまいました。」
  「――今日で、丁度千日目です。」不意に甫民は言う。「今夜で千一夜目になります。」
 思わず何度か瞬いた後、困ったような笑顔をニーヴォは浮かべた。その笑顔から目を反らし、ふいと甫民はどこか遠くに目を向ける。思わずその視線を追い掛けた彼女は、壁に掛けられた二つのカレンダーを見つけた。一つは今日の日付をきちんと示しているが、もう片方はよく見ると三年も前のもので、見当外れの月を指したままだった――それでもニーヴォには、それが丁度千日前で止まっているのだとすぐにわかる。
 申し訳なさそうに細い肩を窄めた彼女は、そっと優しく正楼樹の耳元に語り掛ける。「ね、聞こえた? 丁度いい日にご挨拶出来たね、よかったね」
 彼女の腕の中で嗚咽を上げながら、彼は何度も頷いた。宥めるようにあやすように、彼女はよかったね、と繰り返す。そのたびに正楼樹は壊れたように頷いた。


 ふと甫民は窓の外を見た。訪れ始めた夜の闇の中に、ふわりと梅の花が浮かんで見えた。
 法や国家の監視の抜け道を考えなければならない、とも考えたが、その前に。
 ――泣くのは、今夜二人が眠ってからにしようと思った。




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