月と理由

 戦争が終わってしばらくして、ようやくゆゑはこの国の文字を朧気ながら読めるようになった。
 そして街頭の新聞を読めるようになり、初めてあの人が死んだのだと言うことを知った。
 写りの悪い写真の中で、睨み付けるように正面を見据えたあの人の胸像は白黒にくすんでいた。
 けれどゆゑは知っている。
 ――その人は、瑪瑙のように真っ赤な髪と目を持っていたのだ。

      **********


 ゆゑは、出雲の山村の出だった。
 中国山地の裾野にしがみ付くように暮らしている村全体がとても貧しくて、無論彼女の家もその例外ではなかった。両親が揃っているだけ幾らか他の家よりはましだったが、生来丈夫な家系が仇となり、二人の兄と一番上の弟は早々に徴兵に取られてしまっていた。他にも健康な若者には皆赤紙が来てしまっていたので、村には力仕事の出来る人間がいなくなってしまい、農業もはかどらず余計に村は貧しくなっていた。
 ゆゑのような若い娘も懸命に働いたが、どうしても働き手の欠けを埋めることは出来なかった。おまけに若い男がいなくなってしまっているので、娘達は嫁に行くことも出来ず婿を取ることも出来ず、一層寂しく惨めな思いばかりをさせられていた。
 そんな中でお国から出されたのが、「韓半島への花嫁募集」のお触れであった。難しいことはゆゑにはよくわからなかったが、取り敢えず当時お国が色々な国と戦争をしていて、今の主な敵が、中華でとっくの昔に滅んだはずの乾とか言う王朝の残党だと言うことはわかっていた。そして、その同じ敵と戦っている中華国民政府だとか半島南部辺りと仲がよいらしいということも。
 この花嫁計画は掻い摘んで言えば、この日本の若い娘が半島の若者のところに嫁いで、両国の友好の証とするものらしい。お国を代表してお嫁に行くのだから責任は重大で、その代わりに実家にはたくさんの支度金が支払われるらしかった。そしてそれは「国家の上層部だけが友好を結ぶのでは意味がない」として、ゆゑのような農村の娘が主な対象になっていた。
 無論村の娘達は挙って応募した。遠い異国に娘を嫁がせるのだから親達は渋ったが、お国が募集しているのだから間違いはないだろうという信頼と莫大な支度金の魅力で、結局大半が口を噤んでしまった。
 やはり物凄い数の応募があったのだろう、選考が行われることになった。村一番の美人の光子や睦美も応募していたのだから、とゆゑは半ば諦めていたのだが、驚いたことにこの村からたった一人選ばれたのが彼女だった。家族は戸惑いながらもとても喜んでくれて、ゆゑが異国で恥ずかしい思いをしないように、と精一杯の花嫁支度を整えてくれた。贅沢は禁止されていたけれど、その中で出来る限りの支度をしてくれた。
 小さな柳行李に目一杯の荷物を詰めて家を出るゆゑに、普段は無口で吝嗇な父が、慌てて娘を呼び止めながら家の奥から小さな細い紙包みを持って来た。松江の大きな呉服屋の包みを開けてみたら、真新しい赤い半襟が入っていた。
 「あっちは遠いけん、出戻って来れんよ。ようよう覚悟して行きな。」父に優しくそう言われたとき、思わずゆゑは泣いてしまった。父も母も妹達も泣いていた。見送りに来てくれた友達も皆泣いていた。
 そのときに決心したのだ。どれだけ貧しくても構わないから――絶対に、幸せな家庭を作ろう、と。


 慣れない船に一昼夜揺られて何度も酔ったし、陸に着いてからもずっと歩き通しだったが、それでもゆゑは一言も弱音を吐かなかった。
 一度全国から博多の港に集められた花嫁達は、順繰りに巨大な船に乗せられて海へと出た。そして半島側の港へ到着した後は、予め決められていた嫁ぎ先の村の方向別におおまかに分けられ、更に行き先の村ごとに区別した小集団に分けられると、集団一つごとに一人の案内役の先導を受けて徒歩で向かうという説明を受けた。ゆゑの行き先の村は比較的ここから近いらしく、思わず彼女は手を打って喜んだ。
 通訳の兵隊は陸に上がった後すぐにどこかへ行ってしまって、彼女同様にこちらの言葉のわからない若い娘達と片言の日本語しか話せない現地の案内役だけになってしまいひどく心細かったが、それでもゆゑは他の娘のような泣き言を言わなかった。きちんと案内の農夫の後を追いかけて、どんなきつい道も頑張って柳行李を背負って歩いていた。彼女と結婚するはずの青年の待つ村へと続く道を、必死に進んでいた。
 ちゃんと真面目に頑張って歩いて行けば、きっと村へと辿り着く。きっとそこでは必ず幸せになれる。そう信じて黙々と歩いていた。
 ――そうであったにも関わらず、ゆゑは今、たった一人で山道をさ迷っている。足音を殺し、雑木の陰に身を潜めるようにして懸命に活路を探していた。
 ふと木の根に躓いて、彼女はべたんと転んでしまった。足が縺れ、起き上がろうにも起き上がれなかった。ゆゑはそのまましばらくそこに突っ伏していたが、やがてのろのろと足を屈めるとその場に蹲った。
 泣くつもりはなかったのに、擦り傷だらけの頬を涙がぼろぼろと伝う。そうなるともう歯止めが利かなくなり、彼女は声を殺して泣き始めた。それからふと思い出したように顔を起こし、袖にべったりと染み付いた血糊に目をやると、慌てて肩を抱えて再び俯いた。
 何が起こったのか、ゆゑにはまるで訳がわからなかった。ただ今わかっているのは、ゆゑが一人ぼっちになってしまったのだと言うことだけだった。
 ――ほんの僅か前までゆゑは農夫の先導に従って、山を切り開いた細い道を越えていた。同行の娘達も大方ゆゑと同じような境遇だったらしく辛抱強くついて行っていたが、正直なところ女の足ではなかなか辛い道だった。初めは皆先導の後ろに固まって歩いていたのだが、やがて遅れる者も出始めていつしか縦列行進のような隊列を組んだようになっていた。
 説明されたよりも遥かに過酷な行程に泣き言を言う娘もちらほらと出始め、隊列全体に気だるげな空気が漂い始めた頃、その異変は起こった。
 突然道の脇から武器を手にした支那服姿の男達が現れたのである。
 縦列を崩された娘達はぽかんと呆気に取られたが、男達が案内役の農夫とその周りにいた何人かの娘を斬り殺すのを見ると、悲鳴を上げながら逃げ始めた。すぐに追い付かれて髪を引っ張られる仲間の姿も視野の端に過ぎったが、それに構っていては自分の身まで危なかった。とにかくゆゑは他の娘達のように逃げた。怖くて悲鳴すら上げることが出来ず、ただがむしゃらに逃げ続けた。
 道なんかない山の藪の中をもがくようにして突き進み、足を取られて転んだときにはもう何の音も聞こえなくなっていた。仲間達の悲鳴も、斬られた人の呻き声も、男達の訳のわからない掛声や武器の音も、何も聞こえなくなっていた。そしてようやくゆゑは自分が逃げ切れたことと、完全に他の人とはぐれてしまったことを知った。それに気付いた途端に、腰が抜けて動けなくなってしまった。
 声を出しては追手に見付かるかもしれない、と思うと、声を上げて泣くことも出来なかった。それでも涙を堪えきれず、彼女は声を押し殺してすすり泣いた。もう訳がわからなかった。何が何だかわからなかった。
 ふと肩に食い込んだ行李の紐が痛くて、彼女はしゃくり上げながらそれを下ろす。ところが足場が悪くて尻餅を突いた拍子に、その荷物が手の中からするりと逃げた。慌てて手を伸ばしたが一瞬遅く、中身をぶちまけながら荷物は斜面を転がり落ちる。思わずゆゑは泣くのも忘れ、呆然とその様を眺める。だが、少しずつ状況が飲み込めてくると再び涙が込み上げて来た。湿った地面で中身が汚れない内に掻き集めなければいけないのに、もう動けなかった。どうしてこんなことばかり起こるのだろうと思うと、もう堪らなかった。
 だから、ゆゑはべそをかきながらそこでじっとしていた。もうどうしたらいいのかわからなくなっていた。何も考えられなくなっていた。


 ――すぐ近くで物音を聞いて、ようやくゆゑは我に帰る。
 (……まさか、追い付かれたんじゃ)一旦止まった涙が、再び目の奥から溢れ出してくる。あんなところに解けた荷物を放っておけば誰かが気付くのは当たり前なのに、どうしてそんなことにも気付かなかったのか。そんな迂闊な自分が情けなくて泣けた。
 こんなぼろぼろな姿になって、遠い国で家族にも会えず、虫けらみたいに殺されるのは嫌だった。怖くて恐ろしくて死にたくなくて、ゆゑは自分の肩を抱き締めて藪の中で息を殺す。物音は柔らかい足音に変わり、やがてゆゑのすぐ目の前で止まる。無惨に撒き散らされたゆゑの絣の隣に、黒っぽい革の軍靴がちらりと見えた。木の葉の向こうに垣間見えるのは、すらりとした真っ黒い軍服姿。
 「チョギヨ」
 びくりとゆゑは肩を竦めた。低くてよく響く男の声は、何だかとても不機嫌そうに思えたのだ。短い一言なのに全く意味がわからなくて、それが更に彼女を怯えさせた。
 ふと男はゆゑの絣や、周りに散らばった着替えや小物を拾い上げる。泥棒だろうか、とゆゑは震える。親兄弟が精一杯用意してくれたあの荷物がなくなってしまっては、ゆゑはいよいよ身一つになってしまう。そんなことになったら、嫁入り先にすら行くことが出来ない。
 怖くて声を上げることも出来ず、怯えた眼差しで藪を見詰めるゆゑに、再び男の声は呼び掛けた。
 「……出ておいで。そこにいるのだろう」
 思わずゆゑは目を見開いた。それは、流暢な日本語だったのだ。
 がたがた震えながら、それでもゆゑは身体を支えて立ち上がる。異変に気付いた日本兵が助けに来てくれたのだろうか、とにかく日本語が話せる人がそこにいる――その安堵感に、ゆゑの目から再び涙が溢れた。片手でそれを拭いながら恐る恐る斜面に足を掛けた途端、不意にずるりと足元の土が滑る。
 「きゃ……」尻餅を突いて、藪の木の葉を引き千切りながら転がるように斜面を落ちるゆゑを、不意に大きな腕が支えた。死に物狂いでそれにしがみ付き、がたがたとゆゑは震えた。もう大丈夫だと思ったら、これまで溜め込んでいた怖さが心の中を押し潰しそうな勢いで広がってきてしまったのだ。怖いやらほっとするやらで、ゆゑは震えながら見ず知らずの腕にしがみ付いた。
 それからようやく顔を上げて、再びゆゑは息を呑んだ。慌てて飛び退るように身を離し、彼女は恥も外聞も忘れてその男に見入ってしまった。
 目の前に佇むすらりとした男は、少し不機嫌そうに眉間に皺を寄せて身を屈めると、足元に落ちた自分の帽子を拾い上げた。身形もその仕草も洗練されていて、とてもこの辺りをうろついていてよい人には見えなかった。――それなのに、その仕立のよい軍服の肩口を白っぽく汚しているのは、ゆゑにこびり付いていた泥や埃だろう。もう片方の腕に掛けられている、ゆゑの落とした着物は、染めの真っ黒な袖と比べられるといよいよみすぼらしい。
 しかしそんなものよりも、彼女はその男の顔に釘付けになった。顔に掛かる、少し伸び掛けたような髪の毛が信じられないほどに赤い。そして、ゆゑなんかよりもよっぽど色白なその面差しはひどく鋭利で、優しさとか温かみといったものと無縁に整っていた。とても日本人には見えなかったが、韓人の兵隊さんといった雰囲気でもない――しいて言えば、港でちらりと見た独逸だかの将校さんがこんな雰囲気だったかもしれない。
 何よりその目がゆゑの目を引いた。射竦めるような大きな瞳は褐色を帯びた落ち着いた紅色で――母親がかつてたった一つだけ持っていた瑪瑙の指輪が、丁度こんな具合の色だったような気がする。もうとっくに売り払ってしまったその瑪瑙が、長い睫毛に縁取られたやや切れ長の二つの目の中に嵌め込まれているように思えた。
 思わず彼から目が話せないゆゑに向かって、ふと男は怪訝そうな声を出した。日本語はひどく流暢なのだが、不機嫌なのか抑揚がないだけなのか、今一つ掴みがたい声音だった。「……どうした、そんなに俺は色男か。」
 「ご、ごめんなさい……」たどたどしく頭を下げるゆゑの目の前で帽子を被り直した男は、不意に彼女の頭をこつこつと指の関節で叩いた。「謝る間には、そこの鞄を持っておいで。大事な荷物なんだろう」
 腰を折り曲げたまま視線を脇に向けると、そこに無惨に放り出されたままの行李が見えた。慌てて顔を起こし、ゆゑはそれを拾い上げる。「すみません!」
 まだそれほど歳ではないその男は、ゆゑのぼろを腕から下げたまま顎をしゃくる。「取り敢えず、謝る間にはこれを詰め直しなさい。事情を聞くのはその後だ。」そして器用にばらけた着物を片手で畳む。
 「あああすみません! 本当にすみません!」それを受け取って詰め直しながら何度も何度も頭を下げるゆゑに、再び男はうんざりしたように言った。「だからそれはわかったから。何度も言われなくてもわかる」
 ゆゑが、自分が既にすっかり安堵しているということに気付いたのは、やたらと器用なこの男に手伝われて荷物に紐を掛け直した後だった。


 「……あの、どうして日本語が?」
 やっとの思いでゆゑは切り出した。ずっと気になっていたのだが、それを訊くのは何だかひどく失礼な気がしていたのだ。
 行李の紐に男が布を編み込んで細工してくれたので、担いでも大分重さは堪えなくなっていた。元々このくらいの荷物ならば、ゆゑにとって動けないほどの重荷ではない。赤毛の男は少しだけ心配そうな顔をしたが、やがて黙って歩き出した。
 ついて来いと言われた訳ではないのだが、何となくゆゑはその背中を追い掛けた。何しろ闇雲に走り回ったので、ここが一体どこなのかも皆目見当が付かない。このままここにしゃがみ込んでいて、今度こそあの支那人達が自分を見付け出さないとも限らない。正体も名前も何もかもがわからなかったが、取り敢えず今のゆゑに選択肢はなかった――この男を信じてついていくしかなかった。ついでに言えば、男もまた別に「ついてくるな」とは言わなかったのであるし。
 ゆゑの数歩前を歩いていた男は、少しだけ振り返ると素気無く言う。「日本人には見えないか」
 きょとん、と思わず立ち止まって、彼女は大きな声を上げた。「日本人なんですか?」
 「――日本人ではないが、多分お前が考えてるような人種でもない」少し持って回ったような言葉が、やはりどことなく外国人じみていた。それじゃ、と口を開き掛けるゆゑに、男はさらりと言った。「日本人が言うところの、支那人だ。まあ、混血ではあるがな」
 支那人、という言葉に思わずゆゑは凍りつく。さっきのあの惨状が目の前を過ぎり、知らずの内に彼女は数歩後退っていた。がさり、と踏み締めた落ち葉が鈍い音を立てた。
 それに気付いた赤毛の男は、肩越しに振り返ると薄い唇で笑う。「どうした、倭人。敵兵に勝手についてきたのはお前だろう」それから無造作に腕を組むと、再び前に向き直ってしまう。淡々とした声音はそれでも、ゆゑの話す訛の強い方言なんかよりよっぽど正確な日本語だった。
 「言っておくが、わざわざ支那服を着て襲撃を仕掛けるほど俺達はアホじゃない。もしもあんな真似をするつもりなら、韓人に変装してあいつ等の攻撃に見せかけるか、さもなければ一人だって取りこぼしたりしない」
 言っている意味がよくわからなかったゆゑは、何度も瞬いた後におずおずと男の背中を追う。「……あ、あの……」
 半ば投げやりにすら聞こえるほど静かに、赤毛の長身の男は言った。今度は振り返ろうともしないので、その表情は全く見えない。「わからないか、お前はわざと逃がされたんだ。どこかへ逃げ込んで、支那人に襲われたと告げるただそれだけの為だ。運がよかったな」
 「そ、そうじゃなくて……」もどかしげに口の中で言葉を転がすゆゑに、男はようやく紅色の眼差しを向けた。「支那人が言っても嘘臭いが、お前達を襲ったのは俺達ではない。大方、俺達に見せかけた韓人だろうよ――支那人に日本の娘を大勢殺されては、日本も黙っていないと踏んだのだろう。ついでに嫁を殺された農民の反発感情も煽るつもりだったんだろうな」
 それから男は、ふと憐れむようにゆゑの方を向き直った。「可哀想に、わざわざ外国まで借り出されてとんだ生贄だ」
 ゆゑは見る見る表情を曇らせた。だが、行李の紐に手を掛けた彼女の言葉は、男の予想を大きく裏切るものだったらしい。
 「……あの、お、襲われた場所見て来たんですか? みみみ皆、どうなったんですか?」
 虚を突かれたような顔をして、頬を指先で掻きながら、すらりとした男は呟くように言う。「現場を見たからここに来たんだ。案内役の持っていた帳面を見る限りだと、娘の死体の数が一つ足りなかったから、もしやと思って生き残りを探しに来た」
 「それじゃ……」絶望的な顔をするゆゑの意図にようやく気付いた男は、ひどくばつが悪そうに言った。「……お前が唯一の生き残りだ。残りは全滅だよ――気の毒にな」
 途端にゆゑは、目から大粒の涙をぼろぼろと落とし始めた。目の前で何人も殺されていたけれど、それでも彼女達が一人も逃げ切れず助からなかったというのは、それとは別の悲しさをもたらした。――親しくなるような時間はなかったけれど、それでも辛い山道を一緒に歩いた横顔はぼんやりと覚えている。自分と同じ身の上の彼女達が皆死んでしまったというのは、半ば信じられなかったし、悪い夢のような気分だった。
 何より、自分が一人ぼっちになっているのだと言うことを突き付けられた気がした。お国の催しでこうして連れて来られたのに、そのお国が仲間を殺し自分を殺そうとしたのなら――ここに自分を連れてきた張本人を信じることが出来ないのなら、一体どうすればいいのか見当がつかなかった。
 騙された自分が悪いのか、とも思ったが、そう思うには余りにも犠牲になった仲間達が気の毒だった。第一、生き残ったところで郷に帰ろうにも、もう故郷は遠い海の向こうなのだ。もうどうしようもなかった。行き場もなく、引き返す道もないのだと気付かされては、もはや途方に暮れる他に為す術がなかった。
 堪らなく家に帰りたかった。もう何もかも投げ捨てて、家まで走って帰りたかった。迷子になった子供のように、座り込んで声を上げてゆゑはわんわん泣いていた。一度声を上げて泣き出したら、それまで押し殺していた恐怖までが掛け金を外したように噴き出して来て、もうどうにも止まらなかった。
 男は特にそれを宥めるでもなく黙って彼女の泣き顔を見ていたが、ゆゑがしゃくり上げ始めた頃に彼はふと目を遠くに巡らせて、静かな声で言った。「……取り敢えず、お前を嫁入り先までは連れて行ってやる。誰に何をどう告げるかは、そのときまでに考えておきなさい」


 男はひどく素っ気無い態度ではあったが、ひっくひっくとしゃくり上げながら歩くゆゑを気遣っているらしいと言うことは彼女にもよくわかった。よく見れば長い脚の割に、歩幅を随分と持て余しているのがわかる。口数は多くはないが、どうやらそれは生来のものらしかった。
 ゆゑの嗚咽が止んだ頃に、ようやく切り出すように男は尋ねた。「お前、名前は?」
 「え……あ、ゆゑ――国引ゆゑです」嫁に行くのだから姓を言ったものか、と少し迷ったが、一応彼女は答えた。そしてようやく今更になって、自分もまた男に全く素姓を話していないことに気付く。
 「ユエ」彼は口の中で反芻して、それから事務的に聞こえるほど淡々と次の質問を発した。「意味は?」
 「え」そんなものを考えたこともなかった彼女は、思わず口篭った。それを横目で眺めながら、男は小さな溜息を吐く。「……日本語では髪の毛を結ぶことも、話をすることも、『ユエ』と言わなかったか? まあ動詞だと命令形になってしまうから、名前としては不適当だな。ああそう言えば日本では、『理由』のこともそう言ったような気がする。どっちかと言えばそちらの方が適当だな。理屈のない物事は多いが、理由のない物事はない」
 日本語を話してもらっているはずなのにさっぱり意味がわからず、ゆゑはきょとんと男の顔を見詰めた。少し顔をしかめ、男は首を傾げる。「違うのか?」「えっと……」自分の名前の由来なんて考えたこともなかった彼女は、口篭った後に小さく頭を下げた。「……すみません」
 「別に咎める訳じゃないが」男はこめかみに指先を当てると、不意に妙に温かい声音で言った。「……支那語では、『月』という意味になる。発音もよく似ている」
 ようやくおずおずとゆゑは顔を上げた。それを見て、男は少しだけ笑顔を見せる。見てよかった、と思えるような優しい綺麗な笑顔だった。「支那語の意味なんて興味はないかもしれないが、まあ事実だから仕方ない。俺達にとって、『ユエ』は『月』だ」
 へえ、とゆゑは感嘆の声を洩らす。存外に綺麗な意味だったので、今まで身体の一部のように馴染み切っていた自分の名前が、何となく愛しく感じられた。特に好きでも嫌いでもなかったはずの名前が、何だか特別なものになったように思えた。「お月様かあ」
 男の口調はあくまで素っ気無いが、その声音は温かい。「大陸から見れば、月もまたお前の国の方から昇る。何を思ってお前の名付け親がその名前を付けたのかはわからないが、まあ数奇な巡り合わせだな」
 不意にふと何か考え込むような表情をした彼は、不意に項を反らせて宙の高いところを見上げる。つられてゆゑも見上げると、隧道のように組み合わさった木々の枝がそこだけ切れて、木漏れ日が差し込んでいた。じめじめとした雑木の山であるはずなのに、それは妙に清々しい眺めだった。
 「……お前達はつまり、政略結婚で送り込まれて来ていた訳だが」男はぽつりと言った。
 思わず彼に目を向けたゆゑは、何となく視線を地面に落とす。
 そう、言われなくてもそれには気付いていた。誰もそんなことは表立って言わなかったが、ゆゑ達は祖国とこの国の友好の証として嫁ぐことになった。これを政略結婚と言わずして何と言うだろう。
 幾らたくさんの支度金が出るとは言え、見ず知らずの異国の男に嫁ぐことに不安がないはずがなかった。向こうももしかしたら、ただお国の命令で外国人の妻を嫌々娶るだけなのかもしれない。補助金か何かだけが目当てなだけで、本当はもっと他に結婚したい相手がいる人かもしれない。そんな状態で、大切にしてもらえるのだろうか――言葉も通じない夫と、仲良く出来るのだろうか。
 しかも、もしもこの赤毛の男が言ったことが本当なら――この結婚話そのものが嘘っぱちで、ゆゑ達はただ殺される為だけにやって来たことになる。もしかしたら、夫になるはずの人はどこにもいないのかもしれない。嫌な想像は際限なく湧いて出て、再びゆゑは垂れ目気味の目を潤ませた。
 そんな彼女の耳を、涼しげに男の声は貫く。「――結婚って言うのは、誰かの一番大切な人間になることだ。それはどんな形であっても変わらない」
 今にも泣き出しそうな顔をしたまま、ゆゑは男の端正な横顔を見上げた。研ぎ澄ましたような冷質な面差しなのに、赤い髪も紅の瞳も炎を宿しているように熱い色を滲ませている。少し彼女はどきりとした。
 「どんな馴れ初めを辿っていようが、結局人間にとって一番大切な人間は伴侶以外にいない。そうでもなければ、そもそも政略結婚なんて概念自体が成り立たない――自分の妻は、例え敵の娘であっても簡単には切り捨てられない、だからそれは人質になり得るんだ」
 そんなことを考えたこともなかったゆゑは、ただただぽかんと男の横顔を見上げていた。初めはこの男を随分若い人のようにゆゑは思っていたのだが、彼の横顔は何かもっとずっと老成したような気配を纏っている。少なくとも、ゆゑとは比べ物にならないくらいにたくさんのものを見て体験して、それらを全て吸収しているような人だと思った。
 (――この人は、何なんだろう)ふとゆゑは、彼の姿を再び上から下まで眺め直した。黒い軍帽に黒い軍服、真っ黒な革の長靴のどこにも素姓や身分を示すような文様はない。勲章や帽章の類すら何もなくて、ただ腰の道具入れに小さな小物と拳銃のような物が覗いているのだけが見える。
 服装も、小物も、何より身に纏う気配そのものが、どう見てもただの兵士ではあり得なかった。将校とかそんな生易しいものではない。本当ならこんなところを歩いているはずがない、もっとずっと眩い、本当なら口を利くのも憚られるような――。
 「お前はそのことを誇ればいい。誰かと結婚すると言うことは、自分以外の人間にとって既に一番大切な人間になっていると言うことなんだから。それは何よりも尊いことだ、誇りこそすれ卑屈になる必要などどこにもない」
 この人は堅苦しい言葉しかきっと知らないのだろう――しかし言い聞かせるように語った、その表情がひどく優しくて、ふとゆゑは唇から言葉を洩らした。「あの、あなたは……」
 ――名前も知らない。本当ならゆゑをいつ殺してもおかしくないはずの、支那の人。
 「あなたには、そんな人が……」
 不意に赤毛の男は、くすぐったそうな笑顔を見せた。そんな笑顔を見せておきながら、彼はふわりと首を振る。「いや、俺にそんな筋合いはないよ――『先憂後楽』と言ってな。もしも順番があるとしたら、俺がそんな風に幸せになるのは最後の最後なんだ」
 それからふと何か懐かしむように惜しむように目を細めたかと思うと、枝の形に切り取られて地面に落ちた光に目を注いだ。「――だから、お前達には早く幸せになってもらわないと、俺が困る」
 (どうして)木漏れ日で濡れたように透き通る彼の赤毛を見詰めながら、ゆゑはぼんやりと思う。(――この人は)
 「あたし、敵じゃないんですか?」「別にお前と戦争しても、どうにもならないだろう」ざくりざくりと木の葉を踏みながら、こともなげに彼は言う。「お前個人に恨みがある訳じゃなし、敵視してどうなると言うこともない」
 それならこの人は、誰と戦っているのか。誰を恨んでいると言うのだろうか。
 こんな風に歩調を合わせて歩いてくれる優しい人が、どんな理由で人を憎んでいるのだろうか。
 何故だかひどく胸が痛かった。それはこの人が支那人で自分が日本人だからなのか、それとも彼の言うことが正しいなら、彼はいつまで経っても幸せになんてなれないだろうと思ったからなのか――もしくは、さっきのあのはにかむような笑顔のせいなのか、ゆゑには全く見当がつかなかったのだけれど。


 少しずつ道の幅が広くなり、じめじめと下草に覆われていた山道が次第に踏み固められて乾き始めていた。
 ゆゑがずっと恐れていた言葉が、遂に隣から降って来た。「――ここだな」
 びくりと立ち止まったゆゑが振り仰ぐと、男は手の中の手帳に目を注いでいた。「さっきの帳面とも一致する。お前が嫁ぐ予定の村はここだ――どうやら嫁入り先は架空帳簿ではなかったようだな」
 それからゆゑにちらりと目を向けると、あの鮮やかな赤い目を細める。「悪いが、俺はここから先には行けない」
 (ああ、そうか)荷物を結わえ付けた肩をがくりと落としながら、ゆゑはぼんやりと考える。(この人は支那人で敵だから、韓人さんとは会えないんだ)仕方ないとはわかっていたが、それでも不安は拭い切れない。せっかく頼れる人を見付けたと思ったのに、その人の手元を離れてしまうというのはひどく心細くて、また名残惜しいような変な気分だった。
 そして何より、ここで離れてしまったらもう二度と彼と会えなくなってしまう気がして、それが怖くてたまらなかった。
 名前も知らないまま別れてしまったら、いつか忘れてしまう気がして、それがひどく怖くてたまらなかった。
 その顔を見て、男は軽く首を振る。帽子から零れた赤い髪が頬に掛かってさらさら揺れた。「『スー・トンシク』という名前の男を訪ねろ。そいつがお前の結婚相手になる予定の男だ。――言葉はわからなくても、その内覚えられる。この辺りの人間は人がいいから何とかやっていけるだろう」
 「あの……」か細い声を上げるゆゑを宥めるように、男は彼女の髪に掌を載せた。「……まあ、何か問題があってもいけないし、落ち着くまではしばらく俺もこの辺りで様子を見ておいてやるから。何か困ったことがあればすぐに戻って来い。」
 人の目をじっと見詰めて話す男の瞳が照れ臭くて、余りにも優しい言葉が申し訳なくて、彼の庇護の元を離れるのが心細くて、ゆゑは思わず俯いた。しかし男はそのまま掌をひらりと翻すと、そのまま何の未練も残さない仕草で踵を返す。慌てて顔を上げると、その背中は既に手を伸ばしても届かないほど遠い。躊躇う間にも、思いの外に早足な彼の後姿は遠ざかって行く。
 「あの!」ゆゑは思い切って声を張り上げた。ひどく胸が騒いで、顔が熱かった。「お名前、まだ訊いてません!」
 不意に男の長い足が止まる。食い入るように見詰めるゆゑの視線の先で、彼は背中を反らして振り返った。帽子からはみ出した少し長めの赤毛が顔に掛かっているのはわかるが、木の枝から落ちる影で表情まではよく見えない。
 少し抑えた、けれどよく通る声だった。
 「施蒼炎(せ・そうえん)――赤い火よりもまだ熱い、蒼い炎だ」
 それからふと、黒い革手袋を嵌めた掌をひらひらと頭上で振り、彼の声は笑った。「覚えておいてもろくなことはないぞ、忘れておけ」そして再び背中を向けると、あっと言う間に藪の影に見えなくなってしまった。
 行李の肩紐を握りながら、ゆゑは山道に向かって叫び掛ける。「蒼炎さん、ありがとうございます! 本当にありがとうございます!」
 もう、今度は何の返事もなかった。
 それでも、ゆゑの心中からは不思議なくらいに不安や心細さが消え去っていた。
 (――大丈夫、きっと、大丈夫)
 彼の言葉なら、きっと一つ残らず信じられる。

   ********


 蒼炎は嘘を言わなかった。
 嫁ぎ先の人々は、皆優しかった。ゆゑの無事を本当に喜んでくれたし、犠牲になった娘達のことを知ると村中総出で墓を作りに行ってくれた。
 夫になった東植という男は愚直なくらいに善良な農夫で、言葉が通じないゆゑをそれでも大事にしてくれた。
 村の中に少しだけ日本語のできる人がいて、ゆゑが韓語を覚えるまでの間も何くれとなく世話を焼いてくれた。
 たった一人生き残って嫁いで来たゆゑを、皆本当に本当に大切にしてくれた。
 この村もまたゆゑの生まれ故郷のように、随分と田舎なのだろう。戦争の状況やその他の難しい話はほとんど伝わっては来なかった。何より、新しい暮らしに馴染むのに必死だったゆゑには、そんなことに構っている余裕はなかった。日本を恋しいと思わないわけではなかったけれど、いつまでも泣いている余裕はなかった。一生懸命毎日を過ごす内に、あっと言う間に時間は流れて行った。
 そして、いつの間にか気付いたときには戦争は終わっていた。
 ――もっともそれがかりそめの平和だったとゆゑが知るのは、もっと先のことなのだけれど。


 ともあれ、村の近隣では一番大きな開城の街でゆゑはそれを見た。
 闇市に米を売りに来たその帰り、架け替えられたばかりの真新しい橋のたもとを東植と姑と一緒に通り掛ったときに、すっかり風雨に晒されて色褪せた壁新聞を見付けたのだった。随分古いもので、誰もそれに足を止めていなかったので、ごく自然に見過ごすところだった。
 『戦犯処刑』『大陸を混乱に巻き込んだ諸悪の根源、遂に滅ぶ』
 何の気なしに眺めた漢字ハングル混じりの見出しの中に、ふとひどく懐かしい姿を見付けて思わずゆゑは足を止めた。「あ」
 行き過ぎかけた夫が、すぐに引き返して来た。「どうした? 何か日本のことが書いてあるのか?」そして壁に目をやって、小さく頷いた。「ああ、ようやく皇帝が捕まったんだな。随分長い間逃げてたもんだ」
 「皇帝……」新聞の中央より少し右上に大きめに切り取られた顔写真は、真っ直ぐにこちらを見詰めていた。粒子の粗い白黒写真では、色の薄いその姿はぼんやりとぼやけている。前髪から顔に落ちた影で表情までは窺えない。ただ、その中で強い眼差しがじっと正面を睨みつけていた。
 呆然とその写真を眺めるゆゑの隣で、東植はぽつぽつと記事を読む。「……『終戦直前から逃亡を続けていた乾朝第三十代皇帝劫火帝が、四月十六日未明に国境のハバロフスクで逮捕、即日処刑された。死体は北京へと護送後、検死を含む取調が行われた。これにより事実上旧王朝派の体制は崩壊することになり、戦後も続いていたパルチザン活動も沈静化するものと見られている』――あ、ゆゑ、悪かった。あんまり気分のいい記事じゃなかったな」
 青褪めて震えるゆゑの背中を軽く叩き、眉根を寄せて東植は彼女を宥める。「ともあれ、これで戦争は本当に終わったんだ。もう大丈夫だよ、これからはぼつぼつ皆で平和にやっていけばいいさ」
 ゆゑは緩く首を振った。何か言おうと思ったけれど、言葉にはならなかった。
 ――もしも順番があるとしたら、俺がそんな風に幸せになるのは最後の最後なんだ。
 あのぶっきらぼうな声が、耳の奥で聞こえた気がした。
 ――だから、お前達には早く幸せになってもらわないと、俺が困る。
 「大丈夫だから……ほら、泣くなよ。な、帰ろう。家に帰ろう」優しい掌が背中を擦る。こくこくと何度もゆゑは頷いた。
 (あたし、こんなに幸せになりました。ほら、今はこんなにこんなに幸せなんです)心の中で綴られる言葉を、声に出せないのが辛かった。代わりに目から溢れる涙を、ゆゑは掌でごしごしと擦る。(だから今度は、蒼炎さんが幸せになる番なのに)
 悔しかった。何だかよくわからないけれど、悔しくて悲しくて涙が止まらなかった。泣き出したゆゑを心配した姑がこちらへ足を向けるのが見えたが、それでも涙は止まらなかった。
 (ごめんなさい、ごめんなさい――)
 もっとずっと幸せになります。蒼炎さんの分まで幸せになります。
 他人の幸せを、自分の幸せの理由に出来る、そんな優しい人だから。
 取り止めもなくそんなことを念じながら、ゆゑはひたすら夫にしがみ付いて泣き続けた。


 『尚、劫火帝に伴って逃亡していたとされる愛人、桂雪の消息は依然として不明。引き続き捜査が急がれる』
 ――ゆゑはまだ、知らない。
 本当の戦争は、まだ始まったばかりなのだと言うことを。


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