最終答弁



  威湟十年(雍到元年)一月二十五日、北師素乾城。
  威帝暗殺下手人、元御前太監魯埜の最終答弁。


 ――はい。間違いございません。
 万歳爺を弑し奉りましたるは、私でございます。
 何故?それは皆様方がご存じの通りでございます。
 そう、予妃様が私めに仰せつけになられたのでございます。

 ああ、おかわいそうな予妃様。あの御方はいつも誤解されてばかりでございました。亡くなられた後にすらこの言われようとは、何と哀れな御方でございましょう。
 あの御方がかような方でないことは、この魯埜が誰よりもよく存じ上げております――いえ、恐らくは私以上に、万歳爺が深く深く存じ上げておられましたことでしょう。予妃様はきっと、万歳爺に誤解されなければそれで構わないとお笑いになるでしょうね。あの御方は誠に情の厚い、おやさしい御方でございましたから。
 私めの言葉に何の力があるとも思えません。ですがこの魯埜、天地神明に誓い信実だけを申し上げましょう。
 恐らくは、そのことだけがあの哀れなお二人様のただ一つの供養になりますでしょうから。


 予妃様は、恐ろしい女性ではございませんでした。
 確かに、万歳爺に刃向かう者には容赦のない振る舞いをなさっておいででございましたが、私のように弱い者には常に大層お優しゅうございました。ただ少々気性が激しい向きがございましたので、恐らくそれゆえに誤解されておしまいになられたのでしょう。
 同時にとても聡明な御方でございました。皆様方もご存じでございましょう、進士出身のはずの皆様方ですら舌を巻くほどに、あの御方は英明でございました。万歳爺と共に国の行く末をご案じになられ、まるで車の両輪のように、或いは比翼の鳥のように常にお二人で政局を動かしておられました。ええそうですとも、皆様方よりも遥かに予妃様の方が、万歳爺にとって頼りになる相談役であられたのでございますよ。
 ――何を仰せになられますか。この外朝にも、あの後宮にも、誰一人として万歳爺の御身を掛値なくご案じになられる方がおられましたか。予妃様だけが何の見返りも求めず、万歳爺をただ心の底から慕われたたった一人の御方なのでございます。ただそれゆえに、万歳爺の為に盲目的に振舞われた、ただそれだけなのでございます。何も知らない者が軽々しく、貶めてなどよい御方ではないのです。

 予妃様は身寄りのない御方でございました。何の後ろ盾もなく後宮に送り込まれ、囚人同様の生活を強いられ――恐らく万歳爺に見出されなければ、とうの昔にあの御方は佳人の皮を被った狐狸どもに踏み付けにされてしまわれたことでございましょう。
 そんな予妃様が寵をお受けになられるようになり、それまであの御方に見向きもしなかった者どもが俄然群がり、親子兄弟の契りを結ぼうとなさるようになりました。私は案じ申し上げたものでございます。あの御方が、あんな汚らわしい者どもに食い尽くされておしまいになるのではと。
 ですが予妃様は私めの浅はかな考えなどいとも簡単に吹き飛ばしておしまいになられました。思えばあの聡明で賢明な予妃様のこと、ご自身に群がる方々に牛耳られるなどと言うことがあるはずもなかったのです。
 ――今でも目を閉じれば、ありありと思い起こされます。万歳爺と予妃様のお二人が、お忍びで城外に出られましたこと。
 万歳爺も予妃様に負けず劣らず、大層闊達な方でございました。同時に、この宮城に篭ったきりでは民の暮らしがわからないと嘆いてお出ででございました。ですから予妃様がいつも知恵をお授けになられ、こっそりとお二人でお出掛けになられたのでございます。私めもいつもお供をさせて頂きましたから、そのことはよく存じ上げております。
 そう、いつもあのお二人は、予妃様の義親義兄弟に当たられます方をお訪ねになられるふりで、城外を散策なさっておられたのです。何しろ予妃様に群がる者は半端な数ではございませんでしたから、どこへ行くにつけても口実には事欠きませんでした。
 ご自身でお治めになる国の繁栄をその目でご覧になられるお気持ちは、如何なるものでございましたか――不肖この魯埜めには到底考えも及びません。
ですが私はこの命尽き果てるとも忘れることはないでしょう。あのお二人のお幸せそうな笑顔は。

 あのお二人はこの天上天下で代わる者などあり得ないほどに、固く鴛鴦(えんおう)の契りで結ばれておられました。
 私は女性を愛することの適わぬ宦官の身ですが、だからこそお二人が愛しく眩しくございました。
 男でも女でもない卑しいこの身ですが、なればこそ私はお二人にただただ憧れておりました。
 私は、日が暮れて外朝が閉ざされ皆様方がお帰りになられた後も、夜遅くまでお二人で検案について熱く討議なさっておられた様子を存じ上げております。
 いつどこへ行かれるにもご一緒で、一度など、狩りの折に万歳爺が予妃様に男装を御命じになり、お付の太監のふりをさせてお供とされたことを存じ上げております。
 神武門から――後宮の裏門からこっそりと入内になられた予妃様の御身を憚られ、あの御方が浅ましい嫉妬の情に晒されることのないよう、万歳爺御自ら予妃様の御殿へと夜毎御足労頂いたことを存じ上げております。
 御自身を石女ではないかと気に病まれる予妃様を、それでも万歳爺は夜毎に深くご寵愛なさられたことを存じ上げております。
 お二人がどのように笑いさざめかれ、どのようにお互いを慈しんでおられたか、全て存じ上げております。御前太監として誰よりもお傍でお仕えすることを許されましたこと、この魯埜にとって何よりも誇らしいことでございましたから。 
 そして、存じ上げております。
 あのとき、万歳爺の御盃に注がれていた毒を、予妃様が身代わりにお受けになられましたことも。


 ――ええ、私は全てこの目で拝見致しましたとも。
 決して断れない御相手に押し付けられた御盃を前に、ひどく懊悩なさる万歳爺のお顔も。
 その手から御盃をお取りになり、誰にも声を挙げる間を与えず一息に煽がれた予妃様の笑顔も。
 笑顔のまま崩れるように御倒れになられた予妃様のお姿も、それを抱き止められてすぐさま医師を御呼び付けになられた万歳爺のお声も。
 全て覚えております。

 何故そんなことになってしまったのか、不肖魯埜にはわかりかねます。
御盃をお渡しになられた方御自身、何が起こったのかわからないといった御顔でございました。けれど誰かが隙を見て、毒を混ぜたのは疑うべくもないことでございました。――もしもあのとき毒に気付かれた万歳爺が御盃を固辞すれば、御相手との関係が膠着し、情勢が不安になる。そのことを予め計算に入れた巧妙な犯行でございました。
 万歳爺を暗殺し、御自身の息の掛かった新しい皇帝を擁立することを望む誰かの仕業か。
 政局を不安に陥れ、その隙に叛乱を起こし国家の転覆を目論む何者かの凶行か。
 御自分の皇子を帝位に付けたい先帝の宮女の所業か。
 はたまた宮女達の、万歳爺の御寵愛を一身にお受けになる予妃様への嫉妬の裏返しか。
 それはもう、私には到底わかりかねます。

 ――予妃様はお強い御方でございました。
 それでも、御身の中に残られた毒で、程なくお立ちになることすら適わなくなりました。
 日に日に病み衰えて行かれる予妃様も。
 ご自身を深くお責めになる万歳爺も。
 私には、見ていられなかった――。


 万歳爺は悲しみの余り、まるでご乱心になられたようでございました。
 疑わしき者は尽く厳罰に処されました。もはや後先も省みず、何のご容赦もお与えにならず、容疑の掛かった方の氏族は赤子に至るまで一族郎党尽く処罰なさるよう御命じになられました。
辻ごとに血溜まりが飛沫を上げ、都には絶えず怨詛の歌が流れるようになりました。見る見る内に、外朝内廷共に、人々の数は少なくなって行きました。こと内廷におきましては、処罰を免れた后妃様の方が少なかったのではないでしょうか。身に覚えのある皆様方、さぞや兢々となさられたことでございましょう。
 その粛清は恨みしか呼ばない、国家を乱す元凶にしかならない。病の床で予妃様はそのようにお嘆きになられました。それでもあの御方にはもはや、嘆き悲しむ万歳爺を押し留める御力もついぞ残ってはおられませんでした。ただ万歳爺の訪れを拒み、毒に蝕まれる御自身の痛々しいお姿を御目に晒さないようなさるのが精一杯でございました。
 ――――けれど、と私めは今になって思うのです。あのとき、たった一目でも予妃様が万歳爺とお会いになられておられたら。物言わぬ御姿になられる前に、一言だけでも万歳爺とお言葉をお交しになられたら。
 あのようなことには、ならなかったのではないかと。

 私には何もできませんでした。ただ予妃様の御傍で、お苦しそうな御姿から目を背けることしか出来ませんでした。それでも予妃様は、私めに深いご信頼を寄せて下さったのです。
 あの日、ずっと予妃様は眠ってお出でのようでした。私は灯りを消しておりました。そう、それで確か枕元の蝋燭が少なくなっていることに気付き、取りに行こうと考えておりました。そのとき微かな、本当に今にも消え入りそうなほど微かなお声で、予妃様が私をお呼び止めになられたのでございます。
 外の明かりが僅かに差し込んでおりました。予妃様の御目が――あの強い意思を秘めたお美しい御目が僅かに光を含んでおられたのを覚えております。
 予妃様はそして、こっそりと仰せになられたのです。
 ――わたしは間もなく死にます。それは構わない。誰も恨みなどしない。
    立場が変われば、わたしもきっと手を染めたことだろうから。
 細い御手でございました。まるで削ぎ落としたようにすっかり痩せ細って、節々だけが固く残る御掌でございました。白い御手に、真っ青な脈がほんのりと浮かんでおられました。幾ら握ってもぬくもりの戻らない、冷たい哀しい御手でございました。
 ――ただ気懸りなのは、あの人を遺していくと言うこと。
    あの方はお優しくて、とても寂しがりやだから。だからお前に頼みます。
 いつも綺麗に結い上げておられた髷は解かれ、御床の上に広げられておられました。黒々と台の端から流れ落ちる御髪は、万歳爺の何よりも愛されたものでございました。私めには、だから、触れることすら憚られました。
 ――どうか妾が死んだら、あのお方を妾の元へと送り届けて頂戴。
    あの人は優しいから、これ以上あの手を汚させてはいけない。
 私は首を振りました。ただそれが、万歳爺を手にかけることは出来ないと言いたかったのか、予妃様がお亡くなりになられるのが辛かったからか、それは今でもわかりません。
 それでも予妃様は黙って微笑まれるだけでした。そして私めの手を握ったまま、再びお休みになられました。
 予妃様が薨去なさられたのは、その夜の明け方のことでございました。
 結局、替えの蝋燭は必要ございませんでした。


 正直なところ、私には弑逆などと無理だと思っておりました。
 けれどあの日――私は後悔したのでございます。あの聡明な予妃様の御遺言は、やはり謹んで拝命すべきだったのだと痛烈に感じたのでございます。その顛末は恐らく、お集まりの皆様の方がよりお詳しいのではないかと存じております。
 ――万歳爺はお嘆きになる余り、ますます血の粛清を断行してお出ででございました。一度嫌疑を抱かれますや、真偽などどうでもよいとばかりに次々に処刑台へとお送りになられました。三族全てを罪に問われ、嫌疑を抱かれました方にほんの僅かでもつながりがございましたら、もう命運は尽きたも同然。この愚かな魯埜の目で見ても、明らかにその粛清は行き過ぎでございました。
 恐らく皆様方も、同じお考えでいらっしゃったものと存じます。ただそれを口にしたとき、万歳爺のお怒りに触れるのが怖くて、黙ってお出でだったのでございましょう。この魯埜、それを責めようなどとは申しません。例えその為に、その粛清の為に、万歳爺がますます傷付いて行かれたとしても。
 ただその中にたった一人だけ、正面を切って万歳爺を諌められた方がおられました。万歳爺が御即位なさる前からお仕えされていた、信頼の厚い諌官であったと聞きました。あの予妃様がお心をお許しになり、御意見を求められることすらあったとも。
 その御方は涙ながらに、このように仰せになられたそうでございますね。――予妃様は、かようなことをお望みになられる方ではない。万歳爺の御姿をご覧になられたら、どれほどお嘆きになられることか。今万歳爺が為すべきは予妃様の仇を討つことではなく、志半ばにして御命奪われたあの御方の分まで国の安定の為に尽くすことではないのか、と。
 そして万歳爺はその御方を、一太刀の下にお斬り捨てになられたと――控えの武官の剣を抜き取り、何も仰せになられることもなく、顔色一つ変えることもなく、周囲に制止させる暇すら与えずに。
 その一報を聞いたとき、私には到底信じられませんでした。けれどお戻りになられた万歳爺の血塗れの無表情を拝見したとき、ようやく私は後悔したのでございます。もっと早く、予妃様のご命令に従うべきであった、と。
 もはや万歳爺の御心は、予妃様と共にお亡くなりになっていたのでございます。あの万歳爺のお幸せそうな笑顔は、もう永遠に失われておしまいだったのでございました。そんなことにも気付かず、私が手をこまねいていたばかりに、あの忠義熱い老諌官は万歳爺の御手によって斬り捨てられておしまいになられたのです。
 ――同時にそんな万歳爺のお姿を、きっと予妃様は予見しておいでだったのだと思いました。
 このままでは、万歳爺はどこまでもあの粛清を続けておしまいになられる。あのお優しい万歳爺が、無数の怨みを受けておしまいになられる。そしてきっと、きっと他の誰かが弑逆の刃を濡らすことになる。そんな風に見えておられたのだと思います。ならばそうなっておしまいになる前に、あの御方が悲しみで盲いておしまいになる前に、万歳爺をお導きなさろうとお思いになられたのでしょう。
そしてきっとそれは、魯埜にだからこそ予妃様がお言い付けになられたのだと、僭越ながら考えました。
 私は誰よりも、お二人のことが大好きでした。
 きっとお二人がお互いを想われるのと同じくらい、私はお二人を深く深くお慕い申し上げておりました。
 そう言えば、私にならばどのような無茶なご要望でも言い付けることができるのだと、予妃様が昔笑って仰せになられたことを思い出しておりました。そのときに、私はとても喜びました――きっとそのことを覚えて下さっておいでだったのだと、ようやくそのときになって気付きました。
 魯埜だから、予妃様は御命じになられたのだと、畏れ多くもそのように考えさせて頂きました。
 だから、そうしました。
少し遅すぎましたが、予妃様の御命令謹んで拝命致しました。

 ――――万歳爺も、笑って下さいました。


 ただ心残りは、畏れ多くもあの万歳爺をこの汚らわしい浄身の手にかけてしまったことでございます。
 それから私の死後に、あのお二人をお悼み申し上げる者がいなくなってしまうのではないかということ。
 そして結果的にとは言え、お二人が何よりも案じておられたこの国を乱してしまったということ、誠に申し訳なく存じ上げております。
 ――けれど、それでも私は予妃様の御命令を承りましたこと、今でも後悔致しておりません。
 あのままお二人が天の上下に引き裂かれ続けてしまわれることも、お二人をお悼み申し上げる心も持たない者に万歳爺が弑し奉られることも。
 私には到底正しいこととは思えませんから。
 
 願わくは、お二人をどうか同じお墓にお納め申し上げ下さいませ。何卒、何卒宜しくお願い申し上げます。
 ――私は人殺しでございます。けれどそれを御命じになられた予妃様も、もしかしたら罪を問われておしまいになるかもしれません。あれだけの粛清を執り行われました万歳爺も、或いは同じ咎を架せられておいでかもしれません。だとしたら、それは誠に痛ましいことではございますが――私もお二人と同じ地獄へ参ることができるやもしれません。
 もしもそれが叶いましたら、それは僥倖でございます。
 この魯埜、お二人にお仕えすることだけが、終生の喜びでございました。
 例え地獄に落とされましょうとも、お二人の御足元に再び跪くことができるならば、それは至上の幸いでございます。

 ――ええ、私は本当に、本当にお二人が大好きだったのでございます。


 威湟十年(雍到元年)二月二日、絹市口にて
宦官魯埜(字は者也)、馘首。
 ――その首は城外に晒され、南山陵を向いたと言う。






  【威帝】イテイ   乾の第二十一代皇帝。幼名は陵雲樹。はじめ善く国土を治めたが、予妃を寵愛し外戚を引き入れ、予妃の没後謀殺されたとされる。(一六九四〜一七二二)

   【予妃】ヨヒ   威帝の宮女。姓は不詳(一説には施氏)。威帝を惑わし政権を握り、国を乱した。後に病を得て(一説には暗殺)、臣下に皇帝の暗殺を命じ没したとされる。(一六九五?〜一七二一)

                                     『新漢語(松陽出版)』より




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