凍れる川


 その日、今年初めて鴨緑川(ヤールー川)が凍った。
 韓半民国でアプロッガンと呼ばれるその川は、中華民連邦共和国と韓半民国を区切る国境線の役割を果たしている。同時にこれは、中華からの侵略を防ぐ為の韓半民国にとっての濠でもあった。だがそれも凍り付いて雪が降り積もると、ただの雪原に変わってしまう。
 まだ未明の闇に加え、降り止まない雪で視界は悪い。劉遊星(リュウ・ユジン)は、馬の脇腹に鐙を入れると一気に川面を駆け抜けた。
 この川の向こう、中華民連邦共和国領土内へと。


 ――ヤールー川のほとり新義州は、またの名を『ユーラシア最後の禁猟区』と呼ばれていた。
 そもそも中華と韓半民国の国境線に隣接するこの地域は、長年その領有を主張する両国の抗争の火種になっていた。国境地域で唯一の纏まった平地である新義州は、中華にしてみれば吾が意に沿わず独立した韓半民国を再侵略する為の絶好の足掛かりであり、半島側にしてみれば中華からの干渉を食い止める為の要塞になる。どちらの国にとってもこの土地は軍略上重要な位置にあり、どうしても押さえておきたい土地だった。
 韓半民国は、国境線の内側にあるのだから紛れもなくここは自国の領土であると主張する。片や中華民連邦は、かつてこの国が自国の租界であったと言うことを持ち出してくる。どちらも話し合いは平行線を辿っていた。
 しかし意外なことに、武力衝突はなかなか起こらなかった。両国共に近代化に若干立ち遅れ、また戦時中に荒廃し尽くした国土からこんな周辺域を侵略する国力を生み出せなかったのだ。そこでこの地域を挟んで、両国の睨み合いが続いた。迂闊に動いて侵犯問題に発展させることも出来ず、やがてこの地域は両国共の行政の手が及ばなくなって行った。
 ――その結果、意外な現象が発生することになった。この地域に異常に亡命者が増えたのである。両国とも苛烈な「不安分子」狩りを強行しており、その手から逃れようとした人々が行政の手の届かない新義州に逃げ込んで来た為であった。それでも以前はロシア極東部や樺太に逃げ込むこともあったようだが、中華を中心とした南朝鮮人民共和国や大東亜共和国及びロシア連邦共和国のいわゆる『大東亜共産世界』が形成されると、次第に他の地域でも迫害は苛烈になっていった。そして逃げ場を亡くした人々はいよいよ新義州に集合するようになった。
 無論そのことは中華・民国両国当局ともわきまえていたが、領有問題がはっきり解決していないだけに、自国領土内で行うような逮捕や処罰をおいそれと行うことも出来ない。その結果、新義州への亡命者は基本的に放置されることになり、彼等の数は増加の一途を辿った。今や新義州住民の実質六割が難民だとすら言われている。
 人口約三十万人のこの地域が何の管理もなく生活して行けるはずがないので、自然にこの地域独自の代表者が必要になる。そこで借り出されたのが、かつてこの地方を治める両班(リャンパン、官僚のこと)の子孫であった。実は中華にとっても半島にとっても共産政権を確立する上で最も邪魔になるのがこの階級であった為、実際に本土でならば彼等は両国共で迫害を受けていた。ところがこの地域では誰にとってもわかり易い指導者が求められた結果、両国の目が届かないこともあって両班の家柄がそのまま地域の代表として、行政のようなことを司るようになっていた。
 現在その当主を務めているのが遊星だった。本来ならば家督を継ぐ必要もない気楽な三男だった彼は、武力衝突の中で兄二人を失い、昨年老いた父までも亡くした為に、渋々この『禁猟区』の管理人を務める羽目になってしまったのだった。――もっとも、放蕩無頼で名を馳せた彼に過大な期待を掛ける者はなかなかおらず、周囲の助けを借りながら何とか日々をこなしているのが実情に近いのだが。


 「……へっ、ちょろいちょろい」
 口先とは裏腹に、息が切れていた。雪に紛れるよう白葦毛の馬を選んだのだが、そちらもまだ興奮しているらしい。何とか首筋を軽く叩いてなだめながら、遊星は身を潜める場所を探した。幸い川から少し離れたところに廃屋があったので、そこの裏手に馬を留めると彼は一人で雪の中を歩き出す。そのときになってようやく、彼は自分が震えていたのに気付いた。
 半島内でもだが、それ以上に中華での被差別民の迫害は凄惨を極めているという。特に旧王朝派の勢力分布の関係で、旧北師市以北から東北地方に掛けては特に処刑対象にされる者が多く、各地に収容所が設置されているらしい。そんな彼等にとって唯一の希望の地が、ヤールー川の向こうの新義州であった。
 ヤールー川の川幅は狭いところでは五十メートルもなく、人が歩いて渡れる程度の深さしかない。しかし処刑対象者をおいそれと逃がす訳にも行かない中華政府は、川沿いに厳重な警備を布いて渡河しようとする者を妨げていた。本来中華の警察には公開処刑権が与えられていないのだが、国境警備隊にだけは例外的に銃の所持と民間人に対する発砲が許されているのである。
 夏場はそれでも、ある程度警備にはむらがある。川自体は国境線上にずっと流れているが、渡河出来そうな浅瀬や川幅の狭い地点はある程度限られてくるのだから、その辺りを重点的に警備しておけば何とか体面を保つことが出来る。
 問題なのは、川も全て凍り付いてしまう冬場であった。韓半島内海沿岸部の最北端に当たるここは、真冬になると河川ですら完全に凍結する。更にその上に雪が降り積もればそこはただの大地と変わらない。どこからでも歩いて渡河出来てしまうのである。
 それを警戒して、真冬になると国境警備隊の数は一気に増える。凍り立ての頃であればそれでもまだ警備には隙があるが、代わりに川面の氷が薄く、踏み込んだ瞬間に割れる可能性を抱えている。氷点下の川に放り出されてはまず命はない。どちらにしても命懸けに変わりはなかった。
 「まだ死ぬ訳には行かないからな」
 雪が入り込まないように、遊星はコートの襟を掻き合せた。そう、自分には守らなければならない人々がいる。もう彼には家族がいないから、町の人々が家族のようなものだった。新義州劉氏の家に生まれ、その当主になってしまった以上、彼等の代表者として土地を治め彼等を守るのは彼の義務であり――そして彼がいなくなってしまえば、もう代わりはいないのだった。
 ならば何故こんな無茶をしているのだろう、考えなくとも理由は自明だった。思わず彼は照れ隠しに伸ばし掛けの髪をばさばさと引っ掻く。後ろで小さく髪を束ねたゴムが飛んで下に落ちたので、慌ててそれを拾った。それからそのまま背後を振り向くと、雪の中に霞む対岸の土手を見詰めた。
 ――彼女の、為なのだ。


 寒々とした街道や街並みは、川向こうの新義州とさほど変化がない。それでも明らかに違うのが、活気のなさであった。
 食糧の配給が行われない遊星の土地では、自給自足の生活が強いられている。誰しもが農業に勤しみ、街を整えてゆかなければ生活が立ち行かないのである。遊星もその為の指示は出すが、人々はそれ以上に互いに助け合って肩を寄せ合い生活をしていた。
 そんな生気がこの街並みには感じられなかった。思わず眉を曇らせながら、それでも遊星は降りしきる雪の間に人の姿を探した。とにかく手掛かりを掴まなければならない。何らかの手掛かりを彼女の元に持って帰ってやらねばならないのだ。
 そしてふと街道沿いに、牛を引いてどこかへ行こうとする男を見付けた。どうやら軍部と関係がなさそうなその男は、ふと川の方を振り向くと小さく溜息を吐いた。白い息に曇るその顔は人のよさそうな大人しそうな雰囲気で、どうやら意外と若いらしい。
 どう声を掛けたものか、と遊星は少し躊躇ったが、その男が小さな声で唄うその旋律には覚えがあった。それが彼の背中を押す。
 身を隠していた物陰から出てその背中を追い掛けると、意を決して声を掛けた。
 「ちょっと尋ねたいことがあるんだが」
 中華から逃げてきた子供達にいつも冷やかされるほどなので、余り中語には自信がない。通じるか、と遊星は危ぶんだが、相手の男はごく普通に返事をした。「はい、何ですか?」
 「この辺で、ヤンフィって男を知らないか?」
 ほっとしながら尋ねた遊星の言葉に、男はぎょっと顔色を変えた。
 その顔を見ながら、ふと遊星は笑って見せる。
 「……もしかして、ビンゴ?」
 「……どうして?」
 目の前の男は、すぐ見て取れるほどにうろたえていた。笑顔のままで遊星は、その男の胸倉を掴んだ。
 「だったら、ゲルダ・ゴアのことも知ってるよな?」
 笑顔のまま、凍った声で遊星は言った。ヤンフィとか言う名前の男は、信じられないと言った様子で目を大きく見開く。思わず遊星の笑顔もそのまま凍り付いた。
 「――そう、あんたが見捨てた女だよ」


 ゲルダ・ゴアが新義州にやって来たのは、秋の初めの頃だった。増水して警備が手薄になるタイミングを見計らったのだろう、途中で流されたらしく川辺に倒れているところを発見され、助けられたのだった。
 ふわふわとした長い栗毛と灰青の目を持つ彼女は、難民の巣窟新義州の中でも比較的特異な容姿の持ち主で、しかも言葉が片言なのでなかなか人の輪の中に入れずにいた。どうやら共に亡命する予定の連れがいたらしく、身体の調子が戻らない内からふらふらと出歩いて川沿いを歩き回っては、冷たい風に当てられて熱を出したり倒れたりを繰り返していた。何だかんだ言って面倒見のよい遊星は、そんなゲルダからいつも目が離せなかった。
 一緒に来る予定だったその相手が男だと言うのは、言われなくてもわかっていた。そして彼女がその相手を信じて待っているのだと言うことも。
 もう川を渡っているかもしれない、もしかしたらもうじき渡って来るかもしれない。そう信じて冷たい土手に座り込み、小さな子供達の面倒を見てやりながら川向こうをじっと見詰めている彼女の姿を見ていると切なかった。
 ――一緒に来る予定だった人物が来ていないのだから、何らかの事情があるのは間違いない。流されてそのまま運悪く命を落としたか、或いは国境警備隊に捕まったか。そんな風にも考えたが、死体も上がらず国境で騒ぎが起こったという報告もないことから考えると、どうもそれ等の線は薄かった。ならば考えられることは一つ、ともすれば最も残酷な可能性しか残されていない。――その男が、彼女を捨てたという可能性である。
 そんなことを口が裂けても言えるはずもなく、ただ遊星は肩を震わせて土手で来もしない男を待ち続けるゲルダを、黙って見ているしかなかった。
 しかし、遂に彼も黙っていることが出来なくなった。
 街中の冬支度が忙しくて彼がゲルダに注意をしてやれなかった内に、彼女は雪の積もった川辺で身体を冷やし過ぎてまた倒れてしまったのである。そんな彼女がうわ言で、ずっと男の名を呼び続けてその身を按じていた。それを聞いたとき、遊星は初めてその男に対して怒りを覚えたのだった。
 彼女と――その身体に宿るもう一つの命をこんなにも苦しめる人物が、許せなかったのだ。


 「――ゲルダはな、ずっとあんたのことを待ってたんだよ。自分だってそれどころじゃないはずなのに、それでもあんたの心配ばかりして……」
 ヤンフィは見て取れるほどにがたがたと震えていた。それでも青褪めた唇でおずおずと言う。
 「……げ、ゲルダはそれで、無事なんですか……?」
 遊星はもう作り笑いすら浮かべることが出来なかった。奥歯を噛み締めて、今にも殴り掛からんばかりの様子でヤンフィを睨み付ける。
 「心配するくらいなら何で一緒に来てやらなかった! もう何度も彼女は死に掛けてたのに、それなのに何であんたが守ってやらなかった!」
 その瞬間、ヤンフィはひどく傷付いたような顔をした。それがひどく遊星の気に触った。
 「あんた、一緒に逃げるつもりだったんだろ! だったら何であのとき先にゲルダを渡らせた! 何で流されるゲルダを見捨てた! あんた、あのままゲルダと自分の子供見殺しにするつもりだったのか!」
 「……こ、こど、も?」
 ヤンフィは、彷徨わせていた視線を遊星に向けた。
 「子供って…ど、どう言う…意味、ですか……?」
 思わず遊星は目を剥いた。それからひどく顔を歪ませたまま、笑顔を浮かべる。
 「……知らなかったのか?」
 ――新義州の岸辺に流れ着いたとき、ゲルダは妊娠五ヶ月目に入ったところだった。流産寸前の危ないところを何とか助かって、じきに臨月に入るはずが、寒さで倒れたときに産気付いてしまったのだ。
 彼女は既にやって来た時点で自分の妊娠を知っていた。だから遊星はてっきり、相手の男も知っているものだと思ったのだが。
 ヤンフィはひどくうろたえたまま、遊星に縋るような眼差しを向ける。
 「……ゲルダ、子供いるんですか……? そ、それで……だ、大丈夫なんですか?」
 「そんなに心配なら、自分で会いに行ってやれ」
 遊星は突き放すように手を離した。
 どさりと地面に崩れ落ちたヤンフィは、食らい付くように遊星の足元ににじり寄る。
 「お、お願いします……」
 「何をだよ」
 苛々と睨み付けた遊星は、その瞬間にヤンフィが自分の足元に跪いているのに気付き、思わずぎょっとした。
 がたがたと震えながら冷たい雪の地面にへばりついて、ヤンフィは言う。
 「ご……ごめん、なさい……お、俺、やややっぱりあの川、渡れません……」
 思わず遊星はかっとなったが、余りにもヤンフィが震えているので何とかその続きに耳を貸してやる。消え入りそうなほど小さな声で、彼はすすり泣くように言った。
 「お、俺……か、家族いるんです……ゲルダのことも大事だけど、でも、親父やお袋や、お、弟妹みみみ見捨てられない……」
 ふと、街の人々の囁く噂を思い出した。もしも親族の誰かが勝手に亡命を果たしたら、国に残された家族には例え何の問題がなくとも処罰されるのだと言う。新義州に逃げ込む人間は大抵家族揃っての亡命者であるが、稀に一人で逃げ出して来た者がいて、彼等はいつまでも故郷を按じて嘆いている。
 「で、でも……お、俺……俺は――」
 断続的に聞こえるのは、ほとんど泣き声だった。
 ふと、何故ゲルダがこの男に妊娠を告げなかったのかわかった気がした。――彼女はきっと、そのことで彼を縛り付けてしまうことを恐れたのだ。
 多分、共に逃げることを何よりも望んだだろう。一緒に幸せになることを望んだのだろう。けれど、恐らく政府に追われていたのは彼女だけで、この男は関係がなかったのだ。ましてやこの男の家族は、普通ならばこの土地で普通に生きてゆける人々だったのだろう。
 もしも彼を連れて行ってしまえば、その家族は犠牲になる。けれどゲルダはこの男を愛し、この男は彼女を愛してしまった。――その上に子供まで身篭ってしまったことを告げれば、きっとこの男はゲルダを選ばざるを得なくなる。
 だから彼女は、この男に――ヤンフィに選択肢を与えたのだろう。生まれ育った家族を、土地を、本当に捨てたくないものをその手の中に残せるように。自分の意思で、本当に大切なものを選ぶことが出来るように。
 ――だからこそ彼女は、自分と共に逃げると約束したヤンフィをあんなにも信じたのだ。
 不意に遊星は、泣きそうな顔をした。それから何度か首を振ると、屈み込んでヤンフィの髪の毛をぐいと掴んで顔を起こす。
 大人しそうな、少し気弱そうな彼の目をじっと見据えると、ふと遊星は静かに呟いた。
 「――死んだよ、母子二人とも。助からなかった」
 呆然とそれを聞いたヤンフィは、しばらくぽかんとした後、見る見る顔を歪めて涙を溢れさせた。それから子供のように声を上げて泣き始める。
 その姿を見下ろしながら、遊星は立ち上がると彼のことを見下ろした。
 「……元々身体が弱ってた上に、食糧不足の栄養失調も重なってたからな」
 泣き声に混じるように、ヤンフィの切れ切れの声が聞こえた。
 「……ごめ…なさ、い……お、俺、ど…してもあの川、渡れなかっ……ごめん…ごめんなゲルダ……ごめ、んな……ごめんな……」
 唇を真一文字に引き結んで奥歯を噛み締めた後、不意に遊星は言った。
 「――恨むような女じゃないのは、あんたが一番よく知ってるだろ」
 がくがくとヤンフィは頷いた。それを見ながら、遊星は悲しそうに目を細める。
 「……自分を責めることもないが、忘れないでいてやれ。川を渡れないのなら、せめてそれだけは忘れるな」
 再び地面に額づいて、ヤンフィは嗚咽を上げた。それから目を反らすと、遊星は背後を振り返る。白い雪に霞む土手の向こう、真っ白な雪の積もった川面が見えた。狭いところでは、僅か川幅五十メートル。白く凍った川は、もう平地と変わらないのに――。
 「ごめ……ごめんなさい……ゲルダ……ごめん……――」
 音もなく雪は降り積もって行った。二人の上にも、地面の上にも、そして凍る川の上にも――。



  春が来たら また花が咲き始める
  だから私はこの春も 花一面のこの丘で
  白い小さな花を摘んで 髪にたくさん挿しましょう
  そして春のように優しい人に 逢いに行きましょう

 病室の中から、柔らかい歌声が聴こえて来た。普段の話し言葉は韓語も中語も片言なのに、古い中華の歌を彼女はいつも綺麗に唄う。多分、何度も何度も何度も繰り返しこの歌を唄ったのだろう。
 思わず目を細めると、遊星は静かにドアを叩く。澄んだ声の返事を待って、彼は扉を開いた。
 「――ゲルダ、具合はどうだ?」
 ベッドの上に身を起こした彼女は、穏やかな笑顔でこちらを向くと、そっと言った。
 「……今、眠っちゃったトコロです」
 それから、腕に抱いた赤ん坊に目を注ぐ。見ると、遊星の手だと片手に乗りそうなほど小さな赤ん坊がすやすやと寝息を立てていた。ゆっくりと身体を揺すりながら、ゲルダ自身も眠そうにとろりとまどろむ。窓は風にがたがたと鳴るが、ストーブの温もりはこの部屋いっぱいに広がっていた。
 柔らかく波打つ髪の毛の下、彼女の頬には大きな痣がある。川を渡るときにどこか岩場で擦り剥いたのだろう、生々しく血を滲ませていた深い傷は、結局癒えることなく残ってしまった。その為に柔らかそうな唇は、動かすたびに引き攣る。整った綺麗な顔立ちをしているからこそ、それが余計に無惨で痛々しかった。
 赤ん坊を抱くその手は白い包帯でぐるぐるに巻かれているが、その上からでも指が何本か足りないのが見て取れる。雪の中で凍傷になって、治すことも出来ないまま切り落としてしまったのだ。残った指も醜く腫れ上がり、二度と元の白くしなやかな手には戻らない。
 他にも表から見えない無数の傷が彼女を蝕んでいる。それでも微笑む彼女の強さが、遊星には苦しかった。
 ゲルダの傷だらけの手からそっと赤ん坊を預かって、遊星は彼女をベッドに寝かし付けようとした。と、不意にゲルダはぽつりと言う。
 「――ユジンさん、川の向こう、行ったですか?」
 思わずぎょっとして遊星は彼女の顔を見る。彼女は緩く編んだ栗毛を顔の脇に引き寄せながら、僅かに微笑んだ。少し紫みを帯びた唇が、引き攣れて歪んだ。
 「……おケガ、ないですか?」
 「うん、俺は平気だよ」
 彼女の顔も、腕の中の赤ん坊も直視することが出来ず、遊星は目を伏せた。それを見ながら、ゲルダは小さな声で呟くように言う。
 「――もう、イイですよ。アリガトウゴザイマス」
 思わず彼女に目を向けると、その灰色の瞳から痣と傷跡で歪んだ頬を伝って涙が落ちていた。自分の包帯で巻かれた掌をその顔の上にかざし、ゲルダはぽつりぽつりと言う。
 「……ホントは、来ないの、わかってたんです。あのヒト優しいから……だから多分、来ないって」
 でも、と彼女は顔を歪める。笑ったつもりなのかもしれないが、少なくとも遊星にはそうは見えなかった。
 「……一緒に来る、って、言ってくれて、ホント嬉しかった…です。それだけで、もう、十分だった…ん、です」
 ゲルダの涙を拭いたかったが、触れるとそのまま壊れてしまいそうな気がして、遊星はおずおずと指先を彼女の頬に当てた。その瞬間に彼女の灰色の瞳からわっと涙が溢れ出して、思わず彼はびくりとする。けれどその親指を何とか彼女の目許に当てた。それを許すようにゲルダはそっと目を伏せる。
 「――ワタシ、馬鹿ですね。それだけでよかったのに、もっといっぱい欲張って……ずっと……ホント、馬鹿ですね」
 「そんなこと――」
 言葉に詰まる遊星の顔をふと見上げると、ゲルダは静かに手を伸ばした。
 ようやく気付いた遊星は、腕の中の赤ん坊を彼女の隣に寝かす。大人しく赤ん坊は親指をしゃぶりながら寝入っていた。どことなくゲルダと似た面影の、その子のふわふわの産毛は黒。
 赤ん坊の顔をそっと撫でて、ゲルダは言った。
 「……せっかく神様が授けてくれたのに、生まれる前から、ワタシのワガママで苦しめて……だからその分も、大事にしてあげる、です。この子いる、から……ダイジョウブです。とても、とても、嬉しくて――嬉しいです」
 不意に遊星の頭の中で、全てのことが繋がった。――彼女はもう、覚悟をしていたのだ。あの男が来ないと言うことも、一人でこの子を産んで育てると言うことも。それは多分、男には決して真似の出来ない強さだ。自分にも、あのヤンフィという男にも、決して辿り着くことの出来ない強さだ。
 あの男の子供を産んだ、あの男と同じ歌を唄う、あの男を待ち続けた、そんな彼女が愛しかった。こんなにもか細くて弱々しいのに、決して自分には折ることの出来ない強さを持っている彼女が愛しかった。
 ――そして思わず遊星は、横たわったままのゲルダを抱き締めていた。彼女の心がここにないのはわかっていたけれど、それでもこれ以上彼女を一人で歩かせたくなかった。子供を抱いたまま彼女が傷付くのを見たくなかった。願わくは世界で一番綺麗な箱の中にゲルダとその子を入れて、世界の一番奥に仕舞い込んでしまいたいと思った。
 ――彼女を、守ろうと思った。
 ゲルダは一瞬小さな声を上げたが、やがて包帯で固く巻かれた手を彼の背中に回す。
 「――ダイジョウブ、ですよ?」
 「うん」
 くぐもった声で小さく遊星は答える。「大丈夫だ」
 しばらくゲルダは遊星の腕の中で困惑していたが、やがて小さな声で明るく言った。
 「……ユジンさん、赤ちゃんも」
 思わず遊星は目を瞠ったが、すぐに顔をくしゃくしゃの笑顔に崩して彼は答えた。
 「うん」
 それから、一旦ゲルダをベッドの上に下ろすと、今度は母子諸共に抱きすくめる。か細いゲルダを、小さなその子を、押し潰さないように気を付けながら。
 「この子、女の子、なんです」
 ゲルダは不意に呟く。遊星はこくんと頷いた。「うん、凄い美人だ」
 不意にゲルダは嬉しそうに笑った。そして遊星の耳元に、柔らかい唇を近付けた。
 「――名前、何と付けましょう」




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