凍れる空


 「――その言葉を、信じてもいいんだな?」
 険しい目をして、その男は臆することなく言った。
 連戦連勝の猛虎と名高い韓半民国陸軍中尉全秀漢は、思わず一瞬たじろぐ。こんな男を恐れる理由はない。地上戦・対ゲリラ戦では国内屈指の強さを誇る彼が、かつて地主階級だったというこんな僻地の代表者を前に、どうして恐れなければならないのか。――それにも拘らず彼を竦ませる『何か』の正体は彼自身わからない。
 じきに四十代に差し掛かる年頃だろうか――全中尉とさほど歳の変わらないように見えるその男は、娘と思しき小さな女の子の手を引いていた。父親の影に隠れ、自分の顔を見て怯えたように震える彼女を見ていると、居た堪れない気持ちになる。けれど彼は、その子を安心させるような柔らかな声や温かい言葉を持っていなかった。長い軍隊生活の中で身につけた、よく通る規律正しく無機質な声と杓子定規な言葉しか使えなかった。
 「構わない。この地域の住民の安全は我々が保障する。例えそれがロシア及び中華からの難民ないし混血児であっても変わらない。我々はお前達を民国国民として迎える」
 男は複雑そうな笑みを浮かべる。「混血児、ね……」
 それでも彼は、彼の背後でじっと蹲っていた多数の人々に向かって明るく呼び掛ける。「まあ、そういうことだそうだ! 皆、安心して今夜から寝られるな!」
 その瞬間に、場の空気が一気に和んだのは全中尉の肌にも感じられた。
 ふと、きょときょとと背後を振り向いていた女の子が、全中尉の方を向き直るとぺこりと頭を下げた。
 「ありがとう、ございます」
 舌足らずな調子でそう言うと、女の子は父親の袖をぐいと握りながらおずおずと微笑んだ。
 それを直視することが出来ず、全中尉はくるりと軍靴の踵を返した。


 ――あの人だろ? 自分の嫁さんを処刑したっての。
 ――よくやるよな、俺には無理だよ。
 ――何だっけ、嫁さん密入国者だったんだよな確か。エリートのくせに何でわざわざそんなの選んだんだろ。
 ――どうせでっち上げだろ、あの人有能だから上に睨まれてたって噂だし。
 ――ああ、だから一気に三段階降格されたんだ。
 ――どっちにしても、幾ら仕事が出来ても人格があれじゃあね。


 長年中華との領有問題で揉めていた新義州市に、全秀漢中尉率いる第十七師団所属の中隊が切り込みを入れたのはほんの一ヶ月前。それから一週間も経たない内に、新義州は韓半民国の正式な領土として組み入れられた。長期化していた国境問題に疲弊していた中華側の警備が弛緩した一瞬の隙を突いた攻撃で、ほとんど中華軍は反撃らしい反撃も加えられないまま鴨緑江対岸の丹東への引き揚げを余儀なくされた。
 新義州は黄海と中華民連邦共和国の国境に面した人口約三十五万人の都市である。取り立てて特色がある訳でも資源が出る訳でもないこの土地は、しかし中華にとって半島政策上重大な意味を持つ土地であった。
 そもそも第二次世界大戦終戦後の混乱で中華から一応独立したものの、韓半民国含む韓半島は長年中華の属国であった。その為中華は終戦後もこの地域を独立行政区として統治するつもりだったのだが、半島北部には現行の中華政府と対立の深かった旧王朝派の勢力が根強く、韓半民国は半ば強引に独立を宣言してしまったのである。無論それは中華連邦にとって面白いことではなかったが、戦時中に国力を使い果たして疲弊しきったこの国にはそれを押し留める軍事力がなかった。そこで中華は、かつてと同じように韓半民国を属国として位置付け続けることにしたのである。
 韓半民国と中華連邦共和国の国境はこのような事情により、いわば自然発生的に定められることになった。そこで重要な意味を果たしたのが、半島の丁度付け根の部分を流れる河川であった。国境の西半分は鴨緑江(アプロッガン)、中華の人間がヤールー川と呼ぶ長白山地から黄海側の西朝鮮湾に流れ込む川、東半分は東海(日本海)へと流れ込む豆満江(トマンガン・トマン川)が目に見える形で国境を担っていた。冬になると凍結するこの二本の川は、しかし半島側にとって見れば国の独立を守る心強い「濠」であった。
 その為、国境線上で唯一の平地に位置する新義州は、中華が半島を攻略する為の突破口になる重要な場所だったのである。無論それは韓半民国も弁えているからこそ、幾ら中華に対して腰を低く構えてもそれだけは譲れなかった。何しろ新義州さえ奪還すれば弱体化した中華から完全に独立することが出来るのであるのである。双方の利害は見事にぶつかり合い、戦後五十年近くに渡り新義州の領有問題は膠着し続けていた。
 その結果、思いもよらない問題が発生することになった。統治機構が不明確なのをいいことに、中華と半島の両方から迫害されていた人々がこの地域に集中することになったのである。
 中華民連邦共和国はその成立過程で、旧王朝派にかなり苦しめられていた。とうの昔に滅んだはずの旧王朝派は意外としぶとく、滅亡後九十年経った現在に至るまで、幾ら叩いてもしばらくすると勢いを盛り返して来て叛乱を起こすのである。そこで中華政府は旧王朝派の残党狩りに力を入れ、周辺国にもその要請を出していた。事実上中華の属国に位置する韓半民国はそれを無視できず、やむなく収容所を作り中華からの亡命者を虐殺していた。――それでも、中華国内にいるよりはましだと亡命してくる人間は後を絶たなかったのであるが。
 抹殺要請を出された人々の中には、全く旧王朝派と関係のない者も多く含まれていた。そんな人々は半島内や周辺国に既に拠点を形成している旧王朝派同士を頼ることも出来ず、ただ逃げ回るしかない。そこでそんな人々が集まったのが新義州であった。両国が睨みあうここは統治機構が不明確な為、全面的武力衝突を警戒して中華も半島も手出しをすることが出来なかったのである。
 難民は集中するだけ集中して、その数三十五万の住民の内二十万人を数えるようになっていた。
 ――そんな中での、本当に突然な領有問題の解決であった。


 幾ら中華の警戒が緩んでいたとは言え、相手が丸腰ではない以上、戦闘はやはり起こった。主な戦場は市街地で、数多くの民間人も犠牲になった。生き残った者も家を焼かれ、戦闘の及ばなかった地域に逃げ込んでキャンプを作っていた。
 今回の戦果で最大の功労者であるはずの全秀漢は、戦後処理や時折起こる反撃への対応で、まだなおこの地に留まっていた。その彼が毎日欠かさずに足を向けるのが、難民達のキャンプであった。
 政府の統治が及ばない地域だった為、元々地域のリーダーがいたのだろう。懸念していたほどの混乱は発生せず、この狭い地域に密集しながら難民達はそれなりに秩序ある生活を営んでいた。聞いてみたところ、昔この地域全体を治めていた地主の家があり、そこの家長が今も代表者として人々に支持されているのだと言う。人々の言葉の端から、その人物への尊敬が感じ取れた。そこで全中尉はその人物に会ってみることにしたのである。
 (元地主……)
 それは民国内で最下層として扱われる社会成分であった。民主主義とは名ばかりの、中華の指示に従って共産制を一部に取り入れているこの国にとって、地主とは最も邪魔な存在であったのである。それが指導者として扱われている辺りに、やはりこの地域の特殊性を感じた。
 全中尉にはある懸念があった。それこそがこの難民達に関するものである。
 ――そもそも半島内で迫害されていた人々は、中華政府の要請によって虐げられていた者であった。ならば中華政府から完全な独立を果たした以上、彼等が迫害される理由はなくなるはずである。しかし政府自体が領有問題解決によって混乱しており、その辺りの法的整備がきちんと為されていない。新義州に集まった難民達は、現行の法制度を採用すれば全員が処刑を免れないのである。
 無論その点における法制度改正は急がれている。人道的な問題もあるが、将来に絶望した難民達による暴動を抑止するという目的の方が大きかった。しかし法改正は思いの外に時間が掛かる。その間の叛乱抑止は軍隊の仕事であった。
 (指導者がいるならば、話は早い)
 全中尉は、その人物を納得させることにした。恐らく軍部が命令を出すよりも、その指導者が指示を出した方がより確実な暴動抑止になるだろう。
 暴動を起こされたくはなかった。全中尉は、何があってもそれを抑えなければならないと思っていた。
 これ以上、難民を殺したくはなかったのだ。


 難民達は、明らかにロシア系の血が入った人間も少なくなかった。半島の言葉が不自由な者すらいる。年齢の幅もまちまちで、それでもそんな人々が協力し合って生きているのはある意味で不思議な光景であった。春にも関わらず朝夕は氷点下になる、そんな地域に焼け出された人々がそれでも笑っているのは全中尉の目には非常に奇異に映った。
 「――俺のかみさんは、流れ弾で死んだ」
 瓦礫を組んで作った椅子のような物に腰掛けて、彼は言った。それから直立したままの全秀漢に、隣に座るよう促す。黙って秀漢もそこに座った。劉遊星とか言う名前の、秀漢とさほど年の変わらない男は、自分の地域に踏み込んだ軍人に対して敬語を使わなかった。
 「それでもうちの娘には俺がいる。中には両親を亡くした子供もいるんだ」
 遊星の視線の先で、あのとき彼の引いていた女の子がロシア系と思しき白皙の少年と遊んでいるのが見えた。彼の目深に被った帽子の下の髪は銀色――恐らく、今平壌を歩いていれば問答無用で銃殺だろう。
 ふと彼等の前を中年の女性が数人連れ立って横切った。
 「劉小爺、お元気で」
 「ああ、おばちゃん達もね。今夜も冷え込みそうだから、身体には気を付けてね」
 ぱっと笑顔を向けて気さくに返事をした遊星は、彼女達の背中に手を振りながらぽつりと言う。
 「……あの真ん中の人は、戦闘のときに旦那に死なれて、ここで暮らしてる間に子供にまで先立たれた。医者も薬もないから、弱い人間はぼろぼろ死んでいる」
 ふと秀漢は眉をしかめた。そう、ここにはまるで救援の物資が届いていないのである。中尉とは言え、かなりの権限を与えられている秀漢は何とか兵士を宥めて兵糧を分け与えているが、それもじきに足りなくなる。それでも混乱を起こさずにいるのは、恐らく遊星の度量だろう。彼が笑顔で構えている限り、人々は例え食料の底が尽きても不満を言わないに違いない。
 「――一刻も早い救援物資と、孤児の保障を要請する」
 奥歯を噛み締めるように呟いた秀漢に、遊星は少し笑った。伸び放題の髪を後で小さく縛り、無精髭を浮かせたむさ苦しい姿のはずなのに、どことなく愛敬のある笑顔だった。
 「いいよ、あんた昨日も頼んでくれてたのに。あんまりせっつくとあんたまで印象が悪くなるよ」
 「当然の任務だ。」どこか憮然と秀漢は言った。
 不意に伸びをすると、遊星は首を回す。ばきばきと威勢のいい音が響いた。
 「あー愚痴ったらすっきりした。ごめんよ忙しい軍人さんを田舎のオヤジの愚痴で引き止めて」
 「いや……」
 否定しようとする秀漢を覗き込むようにして、遊星は苦笑して見せた。「あんたも平壌に家族いるんだろ? こっちにずっと取り込ませちまって面目ないよ」
 「――いや」
 その瞬間、不意に秀漢の顔が強張った。その反応に何度か瞬く遊星に、ふと秀漢は言った。
 「……わたしの妻、も密入国者だったのだ。だから、あまり他人事でもないのだ」
 それが過去形だったのに気付き、一瞬遊星は言葉を飲み込んだ。しかし、その後何か振り切るように笑う。
 「そっか、お互い苦労するな。たかが一本の線のせいで、しがないやもめ暮らしかあ」
 黙り込んで秀漢は足元に目を落とした。何となく空元気な声で遊星は言った。
 「――でもま、仕方ないな。守るものがあるだけまだましさ。あんたも頑張って戦うんだよ。俺も頑張ってこいつ等のこと守るから」
 ――ふと、何故この男にあんなにも身が竦んだのかわかった気がした。
 彼は、守りながら生きているのだ。自分が、全秀漢が守れなかったものを。


 妻は、と秀漢は思った。彼女のことをこんな風に意図して思い出すのはどのくらい久し振りだろう。
 夜になると駐屯地のプレハブの中でも凍えるように寒かった。油が足りないので火を入れていないストーブに目をやりながら、あのキャンプはどのような有様だろうとぼんやり秀漢は考える。多分、身を寄せ合って何とか寒さを凌ぐしかないのだろう。
 妻が――永淑が死んで、もう五年になる。その間彼はずっと、敢えて彼女のことを思い出さないようにしていた。それでもふとした拍子に彼女の声音や仕草が浮かんでくることがあって、そのたびに彼は脳裏から彼女の影を追い出すようにしていた。そのままにしていると、もう二度と歩き出せなくなる気がしていたのだ。
 もう眠った兵士達に聞こえないよう小さく吐いた溜息は、白く曇っていた。窓を見ると、白く濁ったガラスは黒い夜空の色しか映さない。星空が見えなくてよかった、と何となく彼は思った。
 永淑は、秀漢の実家で働いていた小間使いだった。よく気が利く、失敗も多いが愛敬のある女だった。身寄りはないが、いつまでも子供のような可愛い女だった。それで彼と同い年ではあったものの、いつも十歳近い年の差を見られていた。
 結婚のとき彼の親に反対をされて、二人で家を出た。二人とも二十五のときだったから、それから十年間二人きりで暮らしていたことになる。
 子供は欲しかったが、結局出来なかった。身寄りのない彼女が、もしも自分に何かあったとき一人きりにならないように、と思っていたのだが、結局一人きりで残されたのは自分の方だった。それでも今となっては、それでよかったと思う。もしも彼女との間に子供がいたとしても、恐らくはその子も処分対象になったのだろうから。
 ――妻が処刑対象の密入国者だと上層部から勧告を受けたとき、それでも方々を走り回って手を尽くした。何とかする方法を探し回った。けれどどうすることも出来ず、軍人としての規範を捻じ曲げることも出来ず、万策尽きて永淑にやっと打ち明けたときにはもう処刑予定日を一週間後に控えていた。突然来週の自分の死を告げられた彼女は、さすがに泣きそうな顔をしながら、それでもようやく笑顔を見せながら言った。
 ――わたしからもお話があったんですよ。いいお話のつもりだったんですが……あんまりいいお話じゃなくなっちゃいましたけど。
 そして彼女の妊娠を告げられた。どうしてだろう、とそのときに初めて運命の不条理さを感じた。
 元より彼女自身自分の身元を知らなかったし、秀漢も追求しようとは思わなかった。もはや素姓を確かめることなど不可能だったはずなのに、それなのに何故そのときになって彼女が密入国者であると発覚したのかなどと数多くの疑問が残った。けれどそれを究明する間もなく期日は訪れて、彼女は銃殺刑に処せられた。助けられないならせめて、と彼自身が引き金を引いた。手が震えて一発目を外した。顔の隣を銃弾が掠め、それからもう一発の銃声を聞くまでの一瞬、永淑は何を思っただろう――。
 処刑の前夜、二人で星を見た。丁度何だったかの彗星が地球に接近していたとかで、流星群が見られるとニュースで盛んに報じていた。けれど秀漢には何も見えなかった。ただぼやけた黒い夜空しか見えなかった。隣の永淑も、きっと同じだったのではないだろうか。
 この闇に紛れて二人で逃げてしまおうかと思った。けれどそれを言い出すことは出来なかった。それは許されないことだった。これまでに数多の密入国者を手に掛けてきた彼が、自分の妻だけを逃がすなどと許されるはずがなかった。逡巡する内に夜は明けて、佇む内に朝日が昇った。
 参列する者のいない葬儀をひっそりとあげて妻の部屋を片付けていたら、沢山のメモが出て来た。ずっと仕事で留守がちで家のことがわからない夫の為に永淑が残したメモだとわかったとき、さすがに声を上げて泣いた。もう二度と動けないと思った。もう二度と朝は来なくてよいと思った。
 彼女を守れなかったことが辛かった。彼女を失ったことがとにかく悲しかった。
 (――それでも、わたしは戦わなければならないのだ)
 確かめるように噛み締めるように彼はそう思う。何度も何度も自分自身に言い聞かせてきたこと。何度も何度も挫けそうになったこと。それでも、彼女を犠牲にしてまでして続けてきたことを投げ捨てることは出来なかった。挫折して、生きることに失望して、彼女の犠牲を無駄にすることは出来なかった。
 ふと彼は疲れたように顔を歪めて笑ってみた。
 (――ここに来るまで、五年も掛かった。)
 ようやく自分に出来ることを見付けた、と思った。自分がすべきことをようやく見付けた、と思った。守るべきものをようやく見付けた、と思った。
 ふと彼は軍靴の紐を結ぶ。きっと流星は流れていないだろうけれど、あのとき見そびれた星を見る為に、秀漢はコートに袖を通して外に出る。
 音を立てないように引き戸を引いた瞬間、ふと奇妙な臭いが鼻に付いた。
 すぐにわかった。
 硝煙の臭いだった。


 駐屯地からでもすぐに、上がる火の手は見えた。秀漢達軍人が踏み躙って何もなくなった平原の遥か彼方、火の手の裾野は丁度あのキャンプの辺り。慌ててジープを飛ばして彼は火元へと向かった。
 ――降り立ったとき、思わず全中尉は息を呑んだ。惨たらしい惨状がそこに広がっていた。
 炎を吹き上げるのは、テントやバラック小屋の木材だけでなく、人の形をしたものが積み上げられた山。至るところに血塗れの死体が横たわり、軍靴によって踏み躙られた跡がある。そこここに転がるのは僅かな家財道具で、つい昨日の昼間に見たときには大切そうに抱えられていた物が土にまみれて放り出されていた。
 ふと生存者を探して首を巡らせた全中尉は、少し離れたところで歩いている人影を見付ける。慌てて駆け寄ろうとして、それが自分と同じ軍服を着ているのに気付いた。銃をぶら下げて周囲に血走った目を向けているその人物は、怯えたように人の死体に銃弾を撃ち込む。その人物の前に立つと、全中尉は問答無用で胸倉を掴んだ。若い兵士は怯えたように視線を彷徨わせた。
 「どう言うことだ!」
 押し殺した声で怒鳴られ、兵士は口をぱくぱくさせる。それから中尉の階級章に気付くと、慌てて頭を振った。「あっ……あの? な、何が……」
 「何がではない! この有様はどう言うことだ!」
 「うちの部下に手荒な真似はやめて頂きたいな、全秀漢中尉」
 思わず目を剥いて振り向くと、そこに小隊を連れた将校が立っていた。思わず秀漢全中尉が手を離すと、掴まれていた若い兵士はまろびつつその後ろへ逃げ込む。
 ようやく状況が飲み込めた全中尉は、眉間を寄せる。「……お前は」
 見覚えがあった。士官学校時代からの同期で、ずっと全の部下だった男だった。永淑が処刑されたときに全は中佐位から三段階の降格を受け、代わりに彼が昇格したはずである。
 「援軍を頼まれていたので来て見たのだが、色々遅れてこんな時間になってしまったのでね。挨拶も悪いかと思ってキャンプの方へ様子を見に来て見たら、驚いたことに外国人の巣窟じゃないか」
 外国人は即時処刑、と言いながら彼は笑った。
 怒りで肩を震わせながら全中尉は言う。「……政府は現在、法改正を行っている。彼等は保護を約束されていたはずだ」
 「そうだったのか。それは悪いことをした」
 わざと驚いたように少佐は言うと、軽く肩を竦めた。「しかし、まだ改正は済んでいないのだろう? ならば違法ではないはずだが」
 それからふと、嫌な笑みを浮かべる。不意に全中尉は、この男が実戦では一番敵の首を取ってくる人物だったことを思い出した。民間人ゲリラであろうと容赦がない彼を密かに快楽殺人者ではないかと疑ったことすらある。
 「――第一わたしは『知らなかった』のだよ」
 その瞬間、ようやく全中尉は理解した。何故いつまでも救援物資が送られて来なかったのか。何故こんな時間に援軍が送られてきたのか。何故寄りによって送られて来たのが『こいつ』なのか。
 (――政府にとって、新義州の難民達は邪魔だったのか。)
 確かに、急激に大量に必要になった救援物資は、貧窮した財政を圧迫したかもしれない。法改正を行えば、その分法の抜け穴が多くなるかもしれない。新義州の難民に市民権を与えれば、他の移民達の問題が増えるかもしれない。その意味では、政府にとって新義州領有問題解決は頭の痛い問題だったのだろう。
 ――しかし、それとこれとは問題が違う。
 (……何故、抵抗しなかった)
 噛み締めるように全中尉は考えた。足元を見ると、軍靴の下は既に誰かの血に塗れている。真っ赤な色が燃える炎に照らし出されていた。
 「彼等から、事情を訊かなかったのか」
 「どうしてその必要が?」
 少佐は見下すように言う。
 齧り付くように睨みながら、全は続ける。「代表者がいたはずだ」
 「さあ」取り付くしまもなく、不意に少佐は周囲を見渡した。
 「仕方がない、全中尉がやかましいからそろそろ撤収しよう」
 唇を噛み締めて佇む全中尉を残し、彼等はぞろぞろと帰って行った。彼の乗ってきたジープも使われてしまったが、そんなものに構っている場合ではなかった。


 遠近で呻き声やすすり泣く声が聞こえた。血の臭いに顔をしかめながら、秀漢は遊星の姿を探す。とにかく彼に会わなければならなかった。
 ふと、日中に彼と話した場所の辺りを探していると、小さな女の子が座り込んでいるのが見えた。身体を丸めて泣いているその子が、あの男の娘だとすぐにわかった。駆け寄るとそこに、倒れた遊星が瓦礫に半ば埋もれている。慌てて瓦礫に手を掛けたところ、小さな女の子は泣きじゃくりながら叫んだ。
 「うそつき!」
 それでも黙って秀漢は瓦礫を押し退ける。放ろうとしたところに別の人の死体があり、仕方なく自分の足元に置いた。目を閉じたまま遊星はほんの僅かも動かない。それでも黙って秀漢は瓦礫を押し退ける。
 「うそつき! もうだいじょうぶなんじゃなかったの!?」
 彼の娘は秀漢の足元に齧り付くと、押し退けようとするように叫んだ。
 うめくように秀漢は言う。「……そのはずだったんだ。」
 女の子は苦しそうにしゃくり上げた。「なんできてくれなかったの……おとうさま、まってたのに」
 思わず秀漢は手を止めた。
 彼の足元にへたり込んで、遊星の娘は切れ切れに言う。「まってたのに……すぐ、おじさまくる…って……きたら、ちゃんとおはなししてくれるって……うそつきぃ……っ!」
 ふと秀漢は顔を上げた。そう言えば、と思う。人々は、満遍なく日中生活をしていたところにそのまま倒れている。狂騒を起こして逃げ惑った形跡がほとんど見られなかった。余りの惨状に気付かなかったが、それは余りにも不自然だった。
 「……わた…わたし、こわくてかくれてた…けど、みんな、まってたのに……ずっとまってたのに……」
 幼い女の子は血塗れの手で秀漢の足を叩く。見るとその可愛らしかった顔は煤と血で汚れて、涙の跡だけが白く流れていた。
 不意に、遊星の声が聞こえた気がした。
 『――その言葉を、信じてもいいんだな?』
 崩れるように足元にへたり込むと、秀漢は遊星の顔を軽く叩いた。それから服を引っ張って、身体を揺する。けれど彼はもうまんじりとも動かなかった。何も言わず、目も開けず、そこに髪を乱して倒れていた。
 「……う、うそ…つきぃ……っ」
 もはや声にもならない声で彼女は言う。顔をくしゃくしゃにして泣きじゃくる彼女をふとつかまえて、止血用に持っていたハンカチを取り出して顔を拭おうとすると、いやいやをするようにその小さな女の子はもがいた。
 「うそつきぃ…………」
 「――そうだな」
 手を離すと、女の子はその場からぱたぱたと逃げ出した。途中でべたんと大きく転んだものの、すぐに起き上がると涙を袖で拭ってまたばたばたと走り出す。その小さな後ろ姿は、瓦礫と煙ですぐに見えなくなった。
 へたり込んだまま、小さな声で秀漢は呟いた。「わたしは、うそつきだ――。」それから足元の遊星を見下ろす。手に握ったハンカチを彼の顔に掛けてやろうと思ったら、既に赤と黒に汚れている。見ると、彼自身の手がもう煤と血で汚れていた。大きな掌に木屑が幾つも刺さって食い込んでいた。
 ふと空を見た。あの日と同じ空が見えた。何もない、ただ闇ばかりの、月も星も見えない濁った空。
 ――ヨンスク。
 不意に妻の名前を呼びたくなった。生きている間は気恥ずかしくて、ろくに呼べなかったその名前。
 ――わたしはもう、動けない。起き上がれないよ。
 足元を見下ろしたが、もうそこも何も見えなかった。ただ頬を伝う熱いものが、鼻筋を下ってぽつりと下に落ちた。
 瓦礫と人々を燃やす炎は、ごうごうと吹き上げていた。闇夜の中で、火花が激しく降りしきっていた。
 もう寒さすら感じることが出来なかった。
 ――ヨンスク。




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