Present



 「アーサー。」
 こつこつと窓を叩く音を聞いて、彼は苦笑した。よいしょと掛声を上げて立ち上がると、レースのカーテンを押さえて開けっ放しの窓の下を覗き込む。
 その瞬間、額にごつんと何かがぶつけられた。不意打ちを食らって面食らう彼に、窓の下から陽気な声が聞こえて来た。「今日は俺の勝ちー。」
 「不意打ちとは卑怯な。」ずれた眼鏡を押し上げると、彼は窓の下に腕を伸ばし、得意そうに笑う少年を掬い上げる。よく考えれば、この少年がまだ窓ガラスに手が届くはずはない。窓を叩く音がした時点で、得物の存在を予測すべきだった。
 彼と同じライトブラウンの目をした少年は、窓の桟から部屋の中に飛び降りると、ふふんと鼻を鳴らす。「『兵は詭道なり』だろ、アーサー。」そして手の中の棒を軽くしならせた。
 腰を軽く叩きながら、老アーサー翁も子供っぽい笑顔を見せた。「全く、お前は誰に似たんだろうね。悪戯の手管ばかり高等化しやがって。」そして少年が本棚の方へと歩いていくのを眺めながら、更ににやりと口元を曲げる。
 いつものように興味深そうに部屋の中をきょろきょろと見渡していた少年は、不意に足元を何か細い糸のようなものに掬われた。彼が形勢を崩してつんのめった瞬間、本棚に雑然と突っ込まれただけの雑誌の山が彼の頭上に降り注ぐ。うぎゃあと言う悲鳴を残して、小さな少年の姿は本の山の中に消えた。
 「兵は詭道なり。」老人は歳に似合わないピースサインを本の山に向けた。もぞもぞと動く本の山からようやく顔を覗かせた少年は、頭に『TIME』誌を載せたままぶうと頬を膨らませる。「畜生、大人気ないぜ。」
 投げやりな捨て台詞を聞き流しながら、秀でた額のアーサーは軽く肩を竦めて見せた。とても、とうに百歳を超えた老人の仕草には見えない。「取り敢えず一勝一敗だな、デイビー。」
 渋々と言った風情で本の山から這い出したデイビー少年に、アーサーは更に追い討ちをかける。「そうそう、その罠に引っ掛かった人間は、もれなくその本の山を片付けなければならないというルールもあるんだよ。頑張ってくれたまえ。」
 「うわ酷! って言うか俺、本棚に手が届かないし!」「そんなこともあろうかと、脚立も既に準備済みなのだよデイビッドソン。」腕を組んで老人は部屋の隅に顎をしゃくる。恐る恐る振り向いた少年は、倉庫にあったはずの木製の古い脚立とモンブラン山レベルの雑誌の山を見て凍り付いた。「酷! 孫にそこまでする!」
 「この間、実の祖父を池に落としたのはどこの誰だっけなあ……あのときのデイビーの台詞、爺さんはまだ覚えてるぞ。」揺り椅子に腰を落としながら、老人はにやりと笑った。顔を真っ赤にして口をぱくぱくさせたが、状況はデイビーに圧倒的不利だった。「……大人しくボケてくれたらよかったのに。」ちっと舌打ちすると、大人しくデイビーは手元の本を掻き寄せた。
 「……罠に掛かったお前が悪い。」椅子をゆらりと揺らす老人の前で、少年は雑誌を抱き上げながらべえと赤い舌を見せた。


 デイビーが脚立を引き摺った拍子にカーペットが捩れたが、そこは大目に見てやることにする。それにしても、六歳半の少年にはちょっとあの脚立は重過ぎたか、とアーサーは反省することにした。かと言って手伝ってやる訳ではないので、デイビーにとっては災難には違いなかったのであるが。
 罰ゲームの意外な重労働さ加減に、初めは膨れっ面だったデイビーもそれどころではなくなってきたようだった。爽やかなオハイオの初夏に一人汗まみれで肉体労働に従事する彼は、さすがに生意気さも影を潜めて歳相応のあどけない懸命さを顔に上らせていた。
 窓から射す光を含んだ柔らかいハニーブロンドの癖毛がはねる。今はすっかり白くなってしまったが、かつてはアーサーも同じ色の髪を持っていた。もっともそのことを知っているのは、今や恐らくはアーサー本人しかいない。証拠になるべきカラー写真が出回る頃には、既にアーサーの頭は白くなり始めていたはずだった。
 目や髪だけではない。デイビーのその面差しも、生意気で明るい口振りも、日に日にエスカレートして行く悪戯の手管も、まさにアーサーに瓜二つだった。百年前にイギリスのコーンウォールで跳ね回っていた悪戯っ子をここに連れて来ることが出来たなら、きっと双子のようによく似ているだろう。
 アーサーは自分とよく似た、けれど余りにも歳の離れ過ぎた孫に目を細める。膝の上に雑誌の束を積み上げたまま、彼はそれに目を落としていた。それからおもむろにページをぱらぱらと捲る。ろくに読めもしないくせに、その仕草だけは一人前で、無性に微笑ましさを感じる。
 「さぼるんじゃない。」言葉とは裏腹に、咎めるはずのその声音は柔らかい。それをデイビーも感じ取ったのだろう、脚立の上に座り込んで手元の雑誌に目を落とながら、彼はひらひらと自分の祖父を手招いた。気になる記事でも見つけたらしい、やれやれとアーサーは立ち上がって足を向ける。
 古い雑誌を開いたデイビーは、一枚の写真を指差しながら言った。「これ、もしかしてアーサー?」「ほう、よくわかったな。」歳の割に驚くほど背の高いアーサーは、脚立の上の本をひょいと覗き込んだ。
 見開きページの右上、やや大きめに古い写真がトリミングされていた。古めかしい型の礼服に身を固め、中華趣味の重厚そうな石造りの椅子の脇に佇んでいるのは、明るい顔立ちに眼鏡を掛けた長身の青年だった。どことなく緊張した面持ちではあるのだが、その割には明るい色の癖毛がそこかしこへとはねているのがとにかく目立つ。礼儀を憚っているのかシルクハットを脱いで胸元に当てているのだが、これならば被っていた方がましだったのではないだろうか。
 「ビリーやハリーにちょっと似てる気がしたけど、二人ともさすがにこんな間抜けな頭で写真には写んないもん。」父親と伯父の名前を引き合いに出しながら、この生意気な子供は自分の祖父を扱き下ろす。ちょっとだけ眉尻を落としながら、アーサーはデイビーを覗き込んだ。「そんなに間抜けか?」
 デイビーは、大きく頷いて念を押した。「アーサー、すげー間抜け。」
 「しょうがないだろ、この日寝坊してたんだから。」アーサーはばつが悪そうに眼鏡を押し上げながら顔をしかめた。「そんなとこよりも、こっちの椅子に注目しなさい。これはだね君、世界の中心なのだよ。」
 勿体をつけるアーサーの顔を、驚いたようにデイビーは見上げる。「世界に真ん中ってあるの?」
 「あるとも。」大きくアーサーは頷いた。そんな仕草も、傍から見れば恐ろしくよく似ているだろう。「これはだね、中華の歴代皇帝がおわしました玉座なのだよ。皇帝がいるところは、中華の人にとっては世界の中心だったらしいからね。と言う訳で、ここは世界の真ん中なのだよ。」
 ふうん、とデイビーは相槌を打ったが、今一つわかっているのかわかっていないのか判然としなかった。それでも得意そうに笑うアーサーは、ハニーブロンドの頭に掌を載せながら自慢げに付け加える。「ここは普通、皇帝以外の人は近寄らせてもらえない場所なんだぞ。こんな風に玉座と一緒に写真に写ってるなんて、爺さんくらいのもんなんだからな。おわかりですかねボーイ。」
 くりくりとした目を瞬かせると、デイビーは感心したような声を出した。「すげー。」「そう、すげーんだよ。」満足げに笑って見せるアーサーに、デイビーは無邪気に一撃を下す。「そんな場所に、寝癖頭で近寄れるアーサーがすげー。」
 「こんな写真撮らせてもらえると思ってなかったんで、前の晩に徹夜で麻雀しちゃったんだよ……。」情けない声で大昔の恥を白状する老人の秀でた頭を撫でながら、デイビーはにこにこと機嫌よく笑った。「今だったら幾ら寝坊しても、寝癖つきそうにないのにな。」
 「デイビーお前、言わせておけば……。」頭を押さえ付けられそうになり、慌ててデイビーはぴょこんと脚立から飛び降りた。それからちょろりとアーサーの拳の届かないところまで逃げると、きゃらきゃらと笑顔で言った。「しょうがないなあ、俺がその位の歳になったら、代わりにその写真を撮り直して来てやるよ。これしか写真ないからって、寝癖をいつまでも本に載っけられるようじゃあアーサーが可哀想だしな。」
 不意にアーサーの表情が翳った。きょとんと無邪気に首を傾げる孫に、少し言い難そうに老人は告げた。「いや、これからもずっと、玉座を写した写真はこれ一枚だけだ。代わりは写せない。」
 「何で。アーサーが大丈夫なら、俺だって……。」不満そうに口を尖らせる少年に、アーサーは苦笑した。「その玉座もな、王宮もみんな焼けちゃったんだ。もうどこにもない、代わりを写しようもない。残念だったな。」
 それから、思い出したように揺り椅子のところまで戻ると、小さな掛声を上げて腰を下ろした。顔を上げると、ひどく残念そうな顔をしたデイビーが再び雑誌に目を落としていた。「ふうん……。」
 「こんなことになるってわかってたら、もうちょっとちゃんとした格好で写真撮っておいたんだけどなあ。」やはり悄然と、アーサーは椅子を軽く揺らした。
 アジア近代史の本が出るたびに、特集の記事が組まれるたびに、その写真の使用許可が出版社から求められる。この写真も今や数少ない過去の貴重な資料になってしまったと言うことを考えれば仕方のない話ではあるのだが、そのたびに前夜麻雀で大負けをしたことや、寝癖を周りの人々に散々からかわれたことを思い出すのは余り幸せなことではなかった。歳をとればとるほど、鮮明になる過去の記憶を呼び起こされるのは必ずしも嬉しいことではなかった。
 何より――その写真を撮り直すことが出来ないと言う事実を突き付けられるのが、寂しかった。時間は決して遡らない。過ぎ去った日々は決して戻りはしない。
 「……んじゃ、俺が大きくなったら、ここんとこ切り取って俺の写真に差し替えるとか。」真面目な顔で雑誌を睨んでいたデイビーは、至極真面目にそんな提案をした。思わず吹き出したアーサーは、何故笑われたのかわからないデイビーに怪訝そうに睨まれる。それでも、しばらくアーサーは揺り椅子を揺らしながらくっくと咽喉を鳴らして笑った。
 過去が戻らないのはわかっている。けれど、デイビーを見ていると本当に百年前の自分が戻ってきたような気がした。彼と自分が違う人間だとはわかっていても、それはアーサーにとって何よりの救いだった。


 「アーサーってさ、わざわざ中華まで行って大失恋したんだって?」
 脚立の上で背伸びをして本棚の上の方に雑誌を並べながら、唐突にデイビーは生意気な口を叩いた。思わず椅子から滑り落ちそうになりながら、アーサーは慌てて手摺で身体を支える。「そんな話、どこで聞いて来るんだお前は。」
 精神攻撃が見事に効いたのを見て、デイビーはにいっと歯を見せる。「トマニから聞いちゃった。伝説に残りそうな、すげー振られ方だったって。」
 どう答えたものかと、思わずアーサーは押し黙った。
 確かにあれは大まかに分類すれば失恋になるのかもしれないが、そう呼ぶには余りにもスケールが大き過ぎた。
 ――二十世紀の初頭、大英帝国の威信を掛けて派遣された外交官が、寄りによってアジア最後の皇帝の妃に恋をした。既にその時点で、自分で言うのも何だが途轍もなく嘘臭い。ましてやその後の激動の歴史を思えば言わずもがなで――下手に人に話しては、そのまま何かのネタにされかねなくて、それが嫌で人目を避けていた時期すらあった。
 人々の口の端に上る中で、『彼女』が変形させられるのが何より怖かった。自分がうっかり口を滑らせたが為に、人の噂の中で『彼女』を汚されるかもしれないということが何より恐ろしかった。
 何よりも、自分と『彼女』がそんな陳腐なロマンスの主人公に仕立て上げられるのが我慢ならなかった。自分は本当に矮小で、どこにでもいるようなつまらない男だったし――『彼女』もまた在り来たりの悲劇のヒロインであるには、余りにも抱えるものが複雑過ぎた。
 事実は常に小説なんか比較にならないほど奇異なもので、それを全て他人に理解してもらうにはあまりにも莫大な労力をもってしてもほとんど不可能に近かった。そして誤解されるくらいなら誰にも何も理解してもらいたくない、若い頃はずっとそう思っていた。
 誰かに話せば楽になりそうなものなのに、それを誰にも打ち明けられなかった。かと言って彼女達のことをそのまま風化させることも出来なくて、のたうつような思いで当時の見聞を手記に纏めた。それでも何一つ心の中で解決しなくて、ずっと一人で悩んでいた。
 ――幸せになるのが怖かった。『彼女』の運命を思えば、自分だけが幸せになるのは許されない気がした。世界のどこかにいるかもしれない『彼女』のことだけが気懸りだった。記憶の中の『彼女』の射竦めるような眼差しを、いつも何よりも畏れていた。
 「……アーサー?」不意にアーサーは、少年の声に意識を引き戻される。はっと顔を上げると、脚立の上からデイビーが不安そうにこちらを見ていた。まずいことを言ってしまったか、と悄然とした顔で軽く頬を掻いている。
 思わず苦笑して、アーサーは掌を振った。「あんまり痛いところを突くんじゃない。デイビー、お前の方がそのうちもっと凄い失恋をするかもしれないんだ。」
 ぱちぱちと瞬いたデイビーは、少し遅れてようやく笑顔を見せる。「大丈夫、俺の方がアーサーよりもてるから。」
 その瞬間、彼の膝に載せていた雑誌がばらばらと崩れ落ちる。情けない顔をして拾いに下りる孫を、思う存分アーサーは笑ってやった。
 ――まさか、自分が五十歳も過ぎてから結婚することになるとは思わなかった。自分が子供を儲け、孫の顔までも拝めるなんて思いもしなかった。こんな風に人並みの幸せを手にすることが許されるなんて、思いもしなかった。
 こんな日々が自分に訪れようとは、まさか夢にも思わなかった。今でもこれが夢なのではないかとすら思うことがある。
 もう残り僅かになった雑誌を纏めて抱えたデイビーが、危なっかしく脚立を上った。その足取りが余りにも覚束なかったので、アーサーはこっそり彼の隣まで足を運ぶ。脚立の頂上に爪先立って本棚に雑誌を押し込んでいたデイビーは、案の定片足を踏み外したかと思うと大きく身体を傾がせた。
 うひゃあ、と情けない声を上げるデイビーをひょいと空中で拾うと、そのままアーサーは本棚のところまで孫を軽々と抱え上げる。「ほれ、これで終わりだ。」「ありがと。」これが最後とばかりに、デイビーは無造作に本棚に残りの雑誌を押し込んだ。それでも、罠を仕掛ける前はただ乱雑に詰め込んでいただけの雑誌が本棚の中にずらりと綺麗に並んだので、アーサーは満足そうに頷いた。
 「よし、綺麗になったな。これでトマニに怒られなくてすむ。」「あ、まさかアーサー、悪戯に見せ掛けて……。」唖然とするデイビーを床の上に下ろしながら、悪戯っぽくアーサーはウインクした。「雑誌の整理をしなさいってトマニに怒られてたんだ。うん、これでよし。」
 脚立を背にしてべたんと座り込んだデイビーは、嵌められたことに気付いてひどく拗ねた顔をした。「やられた。」
 親子以上に歳の離れた妻の怒りを回避することに成功したアーサーは、はっはっはと声を上げて鷹揚に笑った。それから腰を曲げてデイビーの頭に掌をぽんぽんと載せると、ポケットから小さな鍵を取り出して見せた。ぱっと少年の顔が輝く。
 「倉庫に行こうと思うんだが、ついて来るか?」
 「もっちろん!」飛び跳ねんばかりの勢いで、少年は弾けるように立ち上がった。そして大股に部屋を出る祖父の足元に纏わりつくように、ちょろちょろと子犬のような仕草で後を追い掛けた。
 それから扉を開けっ放しだったことを注意されて、弾むような足取りでドアノブに齧り付くと、勢いよく部屋の扉を閉めた。


 絨毯の敷き詰められた長い長い廊下を通り、ステンドグラスの嵌った玄関ホールを抜け、つるバラが咲き誇る中庭のアーチを幾つも潜り、二人は母屋の裏手にある倉庫へと向かった。
 世界史的規模の大失恋を経験して帰国したアーサーは、その後アメリカに渡って商売に成功した親戚の家に養子に入った。図らずして巨万の富を手にした彼は、自分で思っていたよりも商才があったらしく、幸いにしてそれを食い潰すこともなかった。
 もう二度と誰も好きになることはないだろうと思っていたにも関わらず、縁あって妻までもらうことが出来た。自分の父親よりも年上の男に嫁いだ酔狂なその女性は、しかしひどくよく出来た女で、結婚してこの方一度たりともこの調子に乗り易い夫を甘やかした試しがない。その甲斐あって、いつの間にかアーサーは世界史の参考書の片隅に太字で名前が載るような程度の偉人にはなってしまった。
 子供にも恵まれた。男四人女四人の計八人、どれもまあ親によく似た型破りな面々ばかりではあるが、それなりにまともに育ってくれたのは多分に出来過ぎな妻トマニの敏腕の賜物だろう。その上、孫のような歳の子供達は、ちらほらと本物の孫の顔まで見せてくれるようになった。
 アーサー自身、病気らしい病気をするでもなく、いつの間にか百歳を超えてしまった。それでもまだまだ心身ともに健康そのもので、この調子だと当分お迎えは来そうにない。
 幸せだった――自分と言う小さな器には、過ぎた幸せだとアーサーは常々噛み締めていた。
 (……この幸せのほんのひとかけらでも、『彼女』に分けてあげられたら。)ふとした拍子に古傷のように疼くそれは、余りにも贅沢な願いだった。それでも願わずにはいられなかった。
 今の幸せは、余りにも自分に過ぎる。それはわかっていた。けれど――けれど『彼女』と共にどこまでも歩むことが出来たなら、この幸せを全て引き換えても構わないと思う自分も確かにどこかにいた。
 ――しいて言うなれば、『彼女』はアーサーの夢だった。決して手が届かないとわかっている、けれど焦がれずにはいられない、何を犠牲にしても叶えたいと思わずにはいられない、彼の夢だった。
 黄色い砂塵の舞い上がる、煌く原色の宮殿と果てのない蒼穹に彩られた遠い異国の都。四千年の昔から変わらない制度の中で君臨し続けていた『天の息子』と、その華やかな皇妃達。その中でも一際闊達な美しさを誇る『彼女』は、けれどあの瞬間、確かに手を伸ばせば届くところにいたのだ。その翼を翻し、あの紺碧の空を背に縦横に都城を疾駆していたのだ。
 もしもあのとき、あの手を離さなければ、夢は叶ったのだろうか。
 『彼女』は今も、この腕の中にいたのだろうか。
 ――ようやく二人はポーチに続く数段のステップを上がり、大きな倉庫の扉の前に立った。倉庫と言ってもアーサーが若い頃から趣味で集めた中華趣味の骨董品や、個人的に買い取った美術品がごまんと詰め込まれているので、改築に改築を重ねた結果いつの間にか母屋を凌ぐような規模になっている。冗談交じりにその内美術館にしようかなどと言っていたのだが、どうやらそれも笑えなくなってきている状態のようだ。
 鍵穴に鍵を押し込み回すと、かちりと軽い音がした。待ち兼ねたデイビーが、両開きの扉の片側を強引に抉じ開けて中へと滑り込む。遅れて中に入ったアーサーは、手探りで倉庫内の灯りをつけた。美術品の保護の為に窓も設けておらず、灯りもそれほど強くはない。けれど、中世イタリアのカドレリアのように雑然と美術品の並べられた倉庫の中は、なかなか壮観ではあった。
 既にデイビーの姿は見えなかったが、どこにいるかは見当が付いている。舞い上がる埃を顔の前で払いながら、アーサーはゆったりとした足取りで奥へと向かった。普段は決して観たいとは思わないのだけれど、偶にひどく会いたくなる女性――急ぐ必要はない、『彼女』はもう彼の元を離れやしないのだから。
 陳列用の壁を曲がったところで、ようやく老人は小さな少年の姿を捉えた。一際薄暗く照明を落とした壁に掛かる一枚の巨大な絵、そしてそれを一心に眺める少年。我が孫ながら、思わずどきりとする光景だった。
 「綺麗だよなあ。」溜息を吐くように少年は言った。その隣に肩を並べるように屈みながら、老人もまた同じ目線からそれを見上げる。「綺麗だろう。本物はこれの比じゃないんだぞ。」
 それは緻密な油彩画だった。ほぼ原寸で描かれているのは、白い玉座に腰を下ろした金の緞子を纏った人物。その宝冠もその龍袍も皇帝の纏うものではあるが、華奢な体格と秀麗な面は紛れもなく女性だった。
 やや硬質に整った面差しは、ほんの僅か前まで少女だったような初々しい若さに満ちている。しかしその瞳に宿るのは、老獪なまでの知性と鋼をも切り裂くような強靭さ。野生の猛禽を髣髴とさせる猛々しさを孕んでいるのに、失われない気高さが彼女の身分を物語っていた。
 当時の女性にしては珍しい短く切り込んだ黒髪に、細く引き結んだ紅い唇に、玉座の肘と膝の上の本にそれぞれ添えられた小さな細い手に、一部の隙も感じられなかった。若さに特有の幼さや弱さは微塵も感じられない。それが、彼女の肩に架せられた余りにも惨たらしい宿命ゆえだと知っているアーサーには、むしろそれは痛ましさすら感じさせるものだった。
 『彼女』は――かつて「海東青夫人」の名で歴史書に記された女性は、その黒々とした目で彼等を見詰めていた。睨むでもなく微笑みかけるでもなく、思わず身の竦むような無表情で二人に視線を投げ掛けていた。その清涼な眼差しの艶かしさ。
 これが描けるようになるまで、三十年掛かった。覚悟を決めてキャンバスの前に座ったとき、余りにもその記憶が鮮明だったことに愕然としたことをアーサーはよく覚えている。そして何より怖かった彼女のその目が、本当は堪らなく愛しかったことも。
 幼い孫が、今やすっかり年老いた彼女の捕囚に笑顔を向ける。「アーサーさあ、絵だけは上手いよな。」「『だけ』は余計だ。」生意気を叩くその額を軽く小突き、アーサーは久し振りに会う彼女を見上げた。
 ――この絵を描き上げて、ようやく彼は自由になれた気がした。長い間自分の中に閉じ込めていた『彼女』を解放して、ようやく彼自身もその長い長い呪縛から解き放たれたように思った。
 そして、結婚する覚悟が出来たのだ。アーサー、そのとき五十五歳だった。
 「……デイビー、お前、シェヴァの女王は知ってるか?」
 不意に老人は眩しそうに目を細めた。ライトブラウンの目を瞬かせて、デイビーは怪訝そうに目を寄せる。「知ってるさ。聖書に出てくる謎掛けの女王様だろ?」
 アーサーは少し笑う。「そう――黒い瞳と黒い髪、英知と美貌を兼ね備えた世界一の女王だ。」
 きょとんとしながら、それでもデイビーは人の顔をじっと見ながら話を聞く。柔らかいハニーブロンドの癖毛を、この子の祖父はくしゃくしゃと掻き混ぜた。
 ――彼が一世紀を生き抜いたのだと言うまさにその記念日に、この子は生まれた。まるで生きながらにして自分の生まれ変わりを見るような、そんな思いを抱くほどに、この子は自分によく似ていた。
 アーサーは何もかもを手に入れた。財も名声も地位も手中に収めた。無理だと思っていた結婚を果たし、温かい家庭を手に入れた。気は強いがよい妻と、出来のよい子供達と、可愛い孫にまで恵まれた。百を超える長寿まで手にした今、人として他に何を望むことがあるだろう――。
 けれどそれは、夢を犠牲にした上でのものだった。手を伸ばせば届くはずだった、焦がれてやまない夢を諦めて――そして選んだ道がここに繋がっていた、ただそれだけのことだった。それはどこまでも皮肉な巡り合わせで、いつもどこかにその呵責を感じていた。
 ――もしかしたらこの孫は、その夢を叶える為に天が下した贈物ではないのだろうか、無性にアーサーはそう感じた。もしもそうだとすれば、これ以上幸せなことはない。自分自身の夢を押し付けるつもりはないが、この子がその夢を引き継いでいつか叶えてくれたとしたら、それは史上の僥倖だ。
 くりくりとした利発そうな目を瞬かせて、デイビーは言う。「シェヴァの女王を初めて言い負かしたのが、ソロモン王だろ? 知ってるよ、絵本で読んだ。」
 「そう、『ダビデの息子』ソロモンだ。」
 ぱちぱちと大きく瞬くと、デイビーは驚いたような声を出した。「ダビデの息子。」
 ゆっくりとアーサーは頷く。「デイビッドソン――お前のことだよ。」
 それからゆっくり膝を伸ばして立ち上がると、再びこの孫の頭を撫でた。百年前の彼と同じ顔をしたこの孫は、呆気に取られたような顔でアーサーと肖像画とを交互に見比べる。
 彼を不意に抱き上げると、アーサーは原寸の女性の肖像に掲げた。「女王が唯一人触れることを許した男だ。世界一の女が惚れる男だ。どうだ、お前になれるか?」
 そして、再び出会えるだろうか。
 彼を導く宿命は、それを許してくれるだろうか。
 そのときこの子は――もう二度と、あの小さな細い手を離さないだろうか。
 ――そんなアーサーの心を読んだかのように、デイビーは――『デイビッドソン』は、にっと歯を見せた。そして幼い声音で晴れやかに笑う。
 「大丈夫だよ。俺は寝癖にだけは気をつけることにしたからね。」
 思わず虚を突かれたアーサーはぽかんとしたが、やがて彼もまた弾けたように笑い出した。笑いながら、それでもちゃっかり孫と額を小突き合うのだけは忘れなかったのであるが。






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